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『Part3俺のピアノに住んでる蝶の羽の生えた変な生き物について』

  28, 2018 08:04
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長編連載/あらすじ/家出から帰った進士をユリは温かく迎えてくれる。進士は子供達に、感動したことを考えながらピアノを弾くように教える。ユリは進士と一緒に生活していくことで、彼の純粋さを知り、ますます惹かれていくようになる。

妖精達の歌う、「グローリア」や「アレルヤ」は神を讃える歌である。進士は大学で、自分達はなんのために音楽を奏でているのだろう?という講義をする。

キングサイズベッドに寝ている進士とユリの距離は夜毎に縮まっていく。野次馬の妖精達は期待して集まって来る。進士は試しにユリに、もう1度ブログにあるピアノを弾く動画を観てもらう。その動画には妖精の姿がアップで映っている。その時からユリにも妖精達が見えるようになる。進士とユリは彼等に新しい歌を教える。そしてみんなの家を作ってあげる。

夏休みが終わって、毎年恒例の進士のウツが始まる。今年のウツは一味違って、やたらに歌を歌う。色んなジャンルの歌。進士はもう一度この前と同じ、週末3日家出を図る。ウツの鬱陶しい自分をユリに見せたくない、というのが主な理由だった。出る直前にユリに見付かってしまう。しかし彼は進士をそのまま送り出す。前と同じホテルに泊まり、同じことをして、3日目には同じバーに行って、音楽を聴く。バーテンダーはきっと進士はユリのことがとても好きで、将来絶対に幸せになれる、と励まし、進士はバーをあとにし家に帰る。

ユリは進士と妖精達とずっと幸せに暮らしいと言い、進士は嬉しくて号泣する。




Part3俺のピアノに住んでる蝶の羽の生えた変な生き物について



ユリのことを抱き締めて、彼に初めてそういうことをして、でも彼は、俺がこの3日間、どこでなにをしてたか聞いたりしない。エレベーターの中で、俺は彼がコンビニの袋を持っているのに気付く。

「カツカレー作ろうと思ったら、カレーのルー買うの忘れてて。これ入れればもうできるから。」

ルーを鍋に放り込んでから、彼は黙って、でも時々ため息をついて、俺のバスローブを持って来てくれたり、髪をタオルで乾かしてくれたりという、世話を焼いてくれる。俺はでき上がった念願のカツカレーに少し手をつけて、睡眠薬の入った抗精神病薬を飲んでベッドに向かう。途中捕まって、タオルケットでグルグル巻きにされる。

「身体が冷えてる。」

あの10mの大きさから人間サイズに戻ったんだな、不思議だな、って思う。ベッドに横になって目を閉じると、心身の疲れのせいか、簡単に眠りにつく。夜半に1度眩しくて目が覚めた。そしたらなんと、ユリが俺のすぐ側にいる。俺達の身体同士が横に並んで完全にくっ付いている。しかし、あっちもこっちも服は着ている。

「目が覚めたの?寒くない?」

俺は焦って彼から離れる。

「眩しくて。」

「ゴメン、忘れてた。」

と言って、灯りを消してくれる。これってどういう仕組みなんだろう?どこにスイッチがあるんだろう?

「寒くない?」

「大丈夫。でもベッドの下で歌ってる子達に、歌うのは明日にして、もう寝なさいって言って。」

「分かった。」

ユリは優しく、でもハッキリと言ってくれて、連中はパタパタ走って部屋から出て行く。

「どんな歌?」

「古いミサの曲。グローリアーって。」

「へー。」


朝起きたら、カレーの匂いがした。食べ終わると1人目の生徒が来た。男の子。小学4年生。

「間違いは大分減ったけど、つまんなそうに弾いてるぞ?」

「色々あって。」

「色々あったのか?じゃあしょうがないな。最近なにか感動したことない?」

「えーとね、新しい自転車買ってもらった。」

「え、それどこにあんの?」

「下に止めて来た。」

「ここに持って来て。」

「え?」

「感動する物を側に置いて弾いてみて欲しいんだ。」

彼はほんとに下から新しい自転車を持って来る。夕べの雨のせいで、タイヤはドロドロ。ユリは、

「カッコいい自転車だね。」

って、クスクス笑う。俺は、

「じゃあ、この自転車に乗ってる気持ちになって、もう1回最初から。」


その次は女の子。小学3年生。

「なんか元気ない弾き方だぞ。最近なにか感動したことなかった?」

「えーとね、彼氏と仲直りした。」

「なんでケンカしたの?」

「バカなんだもん。」

「なんて言って仲直りしたの?」

「バカでも好きだって。」

「彼氏の写真持ってる?」

「うん。」

彼女はケータイをピアノの上に乗せて弾く。

その子が帰ってから、ユリが、

「感性の教育。なんか上手くいったみたいだけど。」

床のドロを掃除してくれてる。

「もうすぐ夏休みだから、もっと色々感動があるだろう。」

「よかったね。」

「君はピアノの先生にどんなことを教わったの?」

「なに?セックスの他に?」

「あ、いい。言わなくても。」

「そう?」

「あ、それから前から聞きたかったんだけど、君が破壊したのは、どんなピアノ?」

Fazioli。」

マジ?俺のピアノの倍くらいするな。

「それからどうなったの?」

「別になにも。俺、未成年だったし、訴えても捕まるのあっちだし。」

ユリは、なんとなくさっきの女の子が弾いた曲を弾く。練習曲。俺はピアノの中をのぞく。新しい色の蝶の羽。原色っぽい元気な色。でもみんな俺の顔を見るとすぐどっかへ飛んで行ってしまう。あとで、砂糖水を浸した綿を手のひらに乗せる作戦を実行してみよう。いつも不思議なのは、コイツ等が絶対人工過密にならないこと。

「妖精は死んだらどうなるんだろう?」

「さあ。」

「死んでも羽だけは残るはずだろう?不思議だよな。」

「外に逃げて行くんじゃないかな。」

「どこに行くの?」

「教会に。歌を歌いに。」

彼は真面目にそう言って、俺の顔を見る。俺も彼の顔を見て、ふたりの目が合う。目を見て、しばらく目をそらせなくて、でも彼の目がなにを意味してるのか分からない。教会に言った子達は、ちゃんときちんと並んで、いい子で歌ってるのだろうか?


今日の午後、大学に行ったら生徒達に、夕べ、ベッドの下で聞いた、「グローリア」について話そう。神に向かって歌う。俺達はなにに向かって音楽を奏でているのだろう?誰に対してピアノを弾いているのだろう?ひとりだけの部屋にあるピアノ。ユリと今、そんな話をする。俺が、

「俺はいつもピアノを弾く時、作曲家が側で聴いている気がする。子供の時から。」

という話しをする。

「じゃあ、その人が死んでるとしたら?」

「クラシックの作曲家はみんな死んでいる。」

「じゃあどうなるの?」

「それでもちゃんと降りて来て、俺のピアノを聴いて、俺がちゃんと規則を守ってるか、自分の書いた楽譜通りに弾いてるか、側で見ている。」

「でも、今この瞬間にベートーベンを弾いてる人は何万人もいるじゃない?ピアノだけじゃないし。」

「それはサンタクロースに似ている。」

彼はあきれて、

What do you mean?(どういうこと?)」

「サンタは分身の術を使って、忙しい時期を乗り切る。ベートーベンも同じ。そう子供の頃から考えてる。」

「今でも?」

「今でも。」

「っていうことは、サンタも信じてるの?」

「あれは、いる、と考えた方が理屈に合うと思うから。」

もう1度俺達の目が合った。でもやっぱり彼の目がなにを意味しているのか分からなかった。家を出るまでまだ時間があったので、俺は作戦を実行に移す。キッチンの天井で何匹か昼寝をしている。俺は綿に砂糖水をしみ込ませて、口笛を吹いておびき寄せる。連中は起きてこっちを見てる。

「なにしてんの?」

「手なずけようと思って。」

でも、こっちに下りて来ようとしない。

「もしかして、君がやった方がいいかもしれない。」

俺はユリの手のひらに、綿を乗せる。とたんに1匹、2匹と下りて来て、砂糖水を吸い始める。

「ストローを持ってるんだ。賢いな。」

俺は妖精を近くでまじまじと見る。本当に可愛い。綺麗な羽。でも俺が手を近付けると、避けて行く。

「ユリには懐くけど、俺はダメみたい。なんでだろう?」

「見えるからじゃない?」

「じゃあ、君には見えないの?」

「前から言ってるけど。何匹くらいいるの?」

5匹。すごく可愛い。またあの歌が聴きたいな。」

みんなお腹がいっぱいになって、「アレルヤ」を歌ってくれる。美しい和音。俺は涙を流す。

「なんで泣いてんの?」

「あれが聴こえないの?」

「なにが?」

「アレルヤの合唱。美しい。」

ユリは、

Oh my god!

って言いながら俺の顔を手で挟むと、ビッグでちょっとだけ舌の入った、キス。俺は今の、「Oh my god!」は、「アレルヤ」に関連づけられているのだろうか?と考えていた。


3日間家出して、現実に戻って大学に来ると、自分が変わってしまったことを感じる。心が自分だけのものではないと感じる。さっきのキスのせいでもある。

「いつかみんなに、俺のピアノの中から変な生物が出て来る、という話しをしたが、ここんとこはそれが蝶の羽の生えた妖精になって、ピアノを弾くと中から飛んで出て来る。」

俺は大真面目で、講義室がざわめいて、生徒の中にはクスクス笑うヤツもいる。

「その妖精達は歌が上手で、夜中に俺のベッドの下で、グローリアを歌う。今朝は、アレルヤを合唱していた。それで考えたんだけど。」

生徒達は、なんだかんだ言って、ちゃんと俺の言うことを聞いている。

「グローリアとかアレルヤとか、教会で歌われるじゃない?神様を賛美するために。だけど、俺達って、なんのために音楽を奏でているのだろう?」

俺が疑問形で聞いているのに、誰も手を挙げない。

「俺はそれに気付いてドキってした。俺っていつもピアノのある部屋で、たったひとりで弾いている。なんのために弾いてるか?って聞かれたら、答えられない。」

そしたら賢生が手を挙げてくれる。

「動物とかって、メスを呼ぶために鳴いたりするでしょう?」

「いいかもしれない。目的がある。神様を賛美するのにも似てるな。」

講義が終わってから、賢生が、

「まだあの妖精いるんですか?」

「たくさんいる。」

「あのあと病院に行ったんですよね?」

「うん。」

「で?」

「仕事に差し障りがあったり、他人に危害を与えたりしなければ大丈夫だって。」

「へー、なるほどね。みんなで話してたんですけど、進士先生がもうなにを言っても驚かない、って。」

「ドクターは、俺が芸術家だから、そういうのが見えても仕方がない、みたいな。」

「俺にはそういうの見えませんけど。」

「芸術家にも色んなタイプがあるんだろう?」


俺のキングサイズベッドは、幅がよく知らないけど2mくらいあって、俺達はそれぞれ端っこの所に寝ていたけど、なぜか夜毎に距離が縮まってくるような気がする。彼は大体1晩に5cmくらい接近して来て、驚いたことに俺の方も大体1晩に5㎜くらい近付いていく。2mで、5cmだとすぐだと思う。連中は毎晩ベッドの下で歌っている。ミサ曲だけじゃ飽きるから、試しに他の曲を聴かせている。シューベルトの歌曲とか、プッチーニのオペラとか、でも反応はイマイチで、色んなミュージカルを聴かせてみてもダメで、そしたらたまたまその中に、ヘンリー・マンシーニの、「ムーンリバー」があって、オードリー・ヘプバーンが歌ってるオリジナルで、それが連中の大ヒットになり、編曲されて見事なコーラスになり、そのうち連中はヘンリー・マンシーニが好き、ということに気付いて、俺はたくさん聴かせて、今ではレパートリーも大分広がった。今夜、彼の作ったハンバーグを食べながら、そのことをユリに話したら、黙って微笑みながら聞いてくれる。なん日か経って、俺達の寝る位置も近付いて、とうとう今までそれぞれの布団を使ってたのが、1枚ですむようになった。その頃から俺達は大勢の野次馬に囲まれるようになり、俺は別にまだなにもないんだからいいや、と思ってそのままにしておいた。とうとう俺達の身体が触れ合うくらいになって、野次馬の好奇心もピークに達し、俺達がそれ以上進展しないのをじれったがって、小さな足で蹴りを入れて来るようになって、俺はユリにそのことを言うと、指をパチンと鳴らして、すると一瞬のうちにみんな部屋の外に飛んで行ってしまう。俺はさすが生みの親だな、って感心する。ひとり走ってたヤツがパタって転ぶ。いつも蹴りを入れて来たヤツだから、俺が笑う。

「まだドアの隙間からのぞいてるのがいる。」

そしたらユリはもう一度指を鳴らしてくれて、それで俺達の寝室はプライベートになって、ユリが静かに俺の顔を上からのぞき込んで、ふたりは目を合わせて、彼はまだ光線を消してないから俺は眩しくて目をパチパチさせて、そしたら気付いたみたいですぐ消してくれて、俺はいつもみたいにどこにスイッチがあってどうやって消すのだろうと不思議に思って、ほんとは少し明るい方が彼の顔が見られていいかなって思って、暗闇で彼の顔が近付いて来て、彼の体温を感じて、そのあと彼の長い髪が俺の顔に触れて、そういうのも悪くないなって思って、彼が俺の唇にキスするのと舐めるのと両方同時にして、そして俺のことを逞しい胸に抱いてくれて、俺はもうそこまでで限界で、彼の手を振りほどいて、彼は、

「待って欲しいんだったら、待つよ。」

って言ってくれて、

「ゴメンね。あのでっかいポスターが目に浮かんで。」

そしたら彼は笑って、

「あれねー。じゃあ、俺がもっと人間に近付いたら、そしたら。」

「うん。」

クローゼットの隙間から、

「ちぇっ。」

という小さな声がいくつか聞えた。


その日は金曜で、夜はふたり共家にいて、なんとなく俺達のどっちも、期待と不安、って感じで、ふたりで商店街の酒屋に、ビールを買いに行った。

「俺、進士みたいに、なんていうの、純粋な人、初めて。」

「君こそ。あんなピアノ弾く人、初めて。変な生物も生産してくれるけど。」

「アイツ等ねー。」

「今夜はみんな期待してる。」

彼は笑って、

「そうなの?」

「こないだクローゼットにも何匹か隠れてた。」

「いいな、俺にも見えたらいいな。」

「いつも思ってたんだけど、君の動画、ピアノの。あれにバッチリ映ってるんだよ。」

「帰ったら観てみよう。」

俺はまたいつかみたいに、商店街の名前を書いた看板を写真に撮って、ユリが、

「なに撮ってんの?」

「商店街の始まりと終わりってどこなんだろう、って昔から不思議で。」

マンションの入れ口まで帰って来て、俺が3日間家出して、帰って来てうずくまってた道路の方を見て、ユリが、

「あの時、どこでなにをしてたの?」

俺はしばらく黙って、

「考えようと思って。」

「なにを?」

「このまま俺が変わってしまっていいんだろうか?」

「で、どうなったの?」

「自然に変わってしまった。」

エレベーターに乗って、俺は彼の肩に頭をもたせかける。俺の背は彼の耳の高さくらい。だからそうするには丁度いい。俺達は飲み始めて、夏休みはもう始まってて、ビールの美味しい季節。家にくる子供達は感動をいっぱい集めて、俺達に分けてくれる。

「俺は進士にとって、どのくらい人間になったの?」

「さあ?」

彼は飲みながら、自分のブログをチェックしてる。

「俺の人気も3年前がピークだね。これから先のことは分からないけど。」

「仕事の内容が変わっただけだろう?」

「そう。前は人気のあるファッション誌の専属だったし。アイドルだったもん。」

「今だってあんな大きな仕事してるんだから。」

「いつまで食っていけるか。」

「他にしたいことないの?」

「考えてる。子供に英語でピアノ教えたいな、って。」

「へー、いいじゃない。」

「でも俺のピアノ、中途半端だから。」

「俺も手伝えるし。」

「すごいな、そうなったら。やりたいことが近いっていいね。」

「そうだね。」

「前は、いいね!が1000以上だったのに。」

「それはすごい!あ、そういえば動画、観てみて。」

「うん。」

ユリの弾くモーツァルトのピアノソナタが流れる。11番の第1楽章。曲の途中で、1匹の妖精がカメラの前に飛んで来て、悪戯っぽい顔で中をのぞき込む。ユリはじっと動かないで、ケータイの画面を見詰めている。俺は、やっぱり俺にしか見えないんだ、当たり前だよな、俺の頭がおかしいんだ、ってガッカリした。でも、もしかしたらドクターが言ってたみたいに、妖精達はほんとにいて、俺にしか見えないのかも知れない。曲が終わって、ユリがケータイから顔を上げて、

「分かった。」

「え?」

キッチンのカウンターで1匹の妖精が砂糖水を吸っている。両手で可愛くストローを持って。そのストローはちゃんと曲がる所がついていて、上手に吸えるようになってる。ユリが手を差し伸べると、ソイツが彼の手に乗って来る。ミントグリーンの羽にピンクの水玉。

「俺には懐かないのに。」

ユリがその妖精を俺の手に近付ける。ソイツはこわごわ、つま先立ちで俺の手に乗って来る。

「すごい!初めて。魔法みたい。」

妖精は、俺の顔を不思議そうに見ながら羽をパタパタさせる。ユリは、

「ほんとにいるとは思ってたけど、自分にも見えるようになるとは。」

天井にいた色どりどりの妖精が、10匹くらいテーブルに下りて来て、みんなで歌を歌ってくれる。「ムーンリバー」。ユリは指揮を務める。見事なコーラス。歌が終わって、俺がみんなに拍手をして、ユリが、

「可愛いな。」

って、目を細める。

「悪戯ばっかりするんだけど。」

「でも、すごいよ!」

ユリは俺を抱き締める。妖精たちの目が好奇心で輝く。初めて俺から彼にキスをする。かなりヤバい性的なキス。

「進士もう大丈夫なの?俺のこと人間だって思ってくれるの?」

「うん。なんでだろう?ふたりで秘密を共有したから?」

観客が増えて来る。原色のヤツ等がやって来る。

「へー、こんな色もあるんだ。」

「これは新色なんだ。」

「じゃあ俺がピアノを弾いたらまた新しいのが出て来るのかな。」

「そう。でも止めて、ちょっと増え過ぎ。今夜どうすんの?全員を追い払うの無理だよ。」

俺達は、砂糖水に、俺の取って置きのフランス製のウオッカを混ぜる作戦に出て、見事全員をベッドルームから誘い出して、酔っ払わせることに成功する。俺達はお互いの身体中にキスしながら、

「でも進士、俺達、毎回作戦考えるの?」

「可愛いお家を作って、ベッドもたくさん入れてあげよう。」

「そうすれば大人しく寝るの?」

「そりゃそうだろ?」

俺は残ったウオッカを口に含んで、それをユリが俺の口から吸って、飲み干して、

「こんな風に、進士の服を脱がせることができるって思ってなかった。」

俺はユリの服を脱がして、彼が自分の裸の胸を、初めて俺の胸に重ねる。俺は、

「君はこの瞬間に、生きてる、って思うんだろう?」

「そう。ほんとにそう感じてる。進士は?」

「うん。俺も。」

その夜俺は、イカルスの翼をつけて、空高く飛ぶユリに抱き付いて、その周りを妖精たちが取り巻いて、「グローリア」と「アレルヤ」を歌っている夢を見た。


俺は妖精達に、色んなベッドを試してみた。ペット用のフワフワのベッド。お人形用の人間のをそのまま小さくしたみたいなベッド。結局連中が好きなのは、昆虫採集用の透明ケース。これでヤツ等が昆虫に近い、ということが分かった。透明ケースだったら羽が傷付いたり、擦れて鱗粉が落ちる心配もない。使ってない和室にキャンプ用のテントをいくつか張って、ちゃんと電灯も吊るして、綺麗なお花の絵を飾って、人数が多いから棚を作って、ケースを立体的に置いた。カプセルホテルのノリ。24時間水浴びできる装置も作った。これは犬猫の自動給水器を使った。ユリがのぞきに来て、

「上手くできたね。」

って、手を叩く。


夏休みが終わって、小学校も中学校も大学も始まった。

「進士先生、またですね。全然俺のピアノ聴いてなかったでしょう?」

賢生。俺の生徒。聴いてなかったわけではない。聴き方の問題。

「でも俺は楽しんでた。」

「楽しまなくていいですから、なんか言ってください。」

「君が今のをストリートで演奏したら、たくさんの人が足を止める。」

「先生、それ長引きそうだったら教えてください。他の先生探すんで。」

日が短くなってくると、俺の脳が早々と冬支度を始める。ウツは防衛機能だから。だからなんなのかよく知らないけど。賢生は今日の最後の生徒で、彼は俺を、友達の剣と涼が経営するゲイバーに連れて行く。カウンターの静かな片隅にふたりで座る。

「先生、それ半月くらい続きましたよ、去年。」

剣が来て、

「どうしたの?」

「先生、夏休み終わるといつもこうなるんです。」

「こう、って?」

「役に立たなくなるんです。」

「へー。」

涼が来て、彼は俺の高校の同級生で、

「進士は高校の時からそうだった。」

ウツになると俺はあんまり頭を動かせなくなる。それはもし一方に傾けると脳の中身が流れ出して行くような気がするから。俺は小さい声で、「ムーンリバー」を歌い始める。「ティファニーで朝食を」。あの映画はニューヨークのインテリが創った、アメリカがハッピーだった頃のおとぎ話。それが終わったら、俺は、「酒とバラの日々」を歌い始める。俺達の妖精が好きな歌。ヘンリー・マンシーニの。アメリカがまだ夢を信じていた頃の。

「君のラフマニノフは悪くなかった。」

「よくもなかったんですよね?」

「ラフマニノフは難しいから。」

「どうすればいいんですか?」

「恋に破れて、人生のバカバカしさに気付き、それでもロマンを追い求めていくような。」

「意味ない、それ、全然。俺は恋には破れましたけどね。先生のおかげで。」

「そうだった?」

「俺、先生がいるから、あの大学選んだんですから。」

「マジ?」

「はい。」

「じゃあ俺がいなかったら、どうするつもりだったの?」

「多分、ヨーロッパに行ってました。」

「ラフマニノフくらいになると、本人が弾いてる録音が残ってるだろう?」

「はい。」

「ああいうのを参考にしちゃダメだ。」

「え、俺よく聴いてますけど。」

「作曲家は自分の作品を演奏できない。」

「ほんとですか?あとで気が変わったりしないでくださいよ。」

ユリが店に入って来る。賢生に挨拶してるから、きっと彼が呼んだんだろう。ユリは俺の両頬に、ヨーロッパ人がするみたいにキスをして、最後に口にもキスしてくれる。剣と涼が、

「ああ、そいうこと?」

って、ハモってる。賢生がユリに、

「先生、大学で全然役に立たなくなってるんですけど。」

「家でも同じだよ。子供には俺が教えてる。」

「まだ妖精がどうのとか言ってるの?」

「うん。みんなに家を作ってあげて。」

「へー。どんな?」

「昆虫のカプセルホテル。」

「え、見てみたい。」

俺が、「イパネマの娘」を歌い始める。涼が、

「歌を歌うウツって珍しいな。」

確かに。俺は歌うことによって、外界を遮断しているのかもしれない。俺はいつもここではウオッカをロックで飲むけど、今夜はウオッカトニックにレモンとライムを両方入れて飲んでいる。レモンとライムの2つの色を見ていると、色々な想像が浮かぶ。ドリス・デイの、「先生のお気に入り」。賢生が、

「ウツにしては選曲は明るいですよね。」

ユリが、

「家でもずっとああいう曲なんですけど、あれってなにか共通点があるのかな?」

1960年辺りのアメリカで流行った曲。」

またドリス・デイの、「ケセラセラ」。なぜ選曲が明るいのか?それは分からない。いい曲だから帰ったら妖精達にも歌ってあげよう。きっと気に入る。俺は妖精達を喜ばせようと、色々考える。小さいステージを作って、マイクをセットしたらどうだろう?妖精サイズのピアノ。ヘンデルの、「ハレルヤ」。賢生が、

「この明るい選曲が逆に不気味。」

ユリが、

「これは家で妖精がよく歌ってる。」

「ユリにも聴こえるの?」

「まあ。」

「へー。」

「こういうのって、どのくらい続くものなんですか?」

「去年は半月くらい使い物にならなかった。」

「俺も仕事あるし。」

「実害はないんですけど。ピアノ聴いてないだけで。」

「いつもこうやって歌ってるんですか?」

「それはね、新しい。初めて。」

「妖精の影響?」

「ユリにも見えるんですか?」

「まあ。」

「へー。」

ヘンデルの、「ハレルヤ」が終わってしまって、ボーってしてたら、剣が、

「さっきのボサノバよかったですよ。あれもう1回お願いします。」

「分かった。」

俺はまた、「イパネマの娘」を歌う。でも短いからすぐ終わってしまう。またボーってする。賢生が、

「じゃあ俺、もう1回、ムーンリバー。」

「分かった。」

でもそれも短いからすぐ終わってしまう。ユリが、

「じゃあ俺、もう一回、ケセラセラ。」

「分かった。」

これはやっぱり妖精達が好きそう。帰ったらさっそく教えてあげよう。昆虫のカプセルホテル。みんな気に入ってくれたから、もう俺達のベッドの邪魔をしに来ない。俺はウツで性欲ないけど、ユリのオモチャになっている。彼は俺の感じる部分を刺激して、なんとか燃えさせるのを楽しみとしている。ウツの時に家に誰かいるというのはあんまりないことで、俺の思考パターンとしては、ユリが俺をすてて出て行ったらどうしよう?という恐れと、俺のウツの毒にやられる前に出て行って欲しいという期待と、俺なんて面倒見てもらうような価値のない存在だ、という諦めと。あのドクターのせいで自殺はできないけど、家出だったらできるな。また3日間の週末家出でもしようかな?またあのホテルに泊まって、テレビ観ながら酒飲んで、あのバーに行ってあのスピーカーの音を聴きながら、酒を飲む。


ほんとにそうしようと思った。あの時は自分自身に戻りたくて、独りになりたかった。今回は?ウツの重い気分を人前にさらしたくない、そんな気持ち。今度は着替えくらい持って出よう。また雨が降るかも知れない。あのホテル、またあの値段にしてくれるとは思えないけど、一応交渉してみよう。道に迷わないように、ちゃんと準備もしよう。ホテルの名前は覚えてる。金曜日、大学が午前中で終わって、家に帰って、妖精たちにちゃんと食べ物を準備して、簡単な荷造りをして、エレベーターで下に行ったところでユリに会った。

「進士?」

俺は悪戯が見付かった、俺達の妖精みたいになって、うつむく。

「なに?どこへ行くの?」

俺は構わず歩き出す。彼はついて来る。俺は商店街の始まる所で立ち止まって、

「大丈夫、こないだと同じ所だから。」

彼は俺の前をふさいで、俺の顔を見て、

「だったら俺も一緒に行く。」

「すぐ近くだから。」

俺は今度は迷わずに、変な横道から大通りに出て、目的のホテルに着く。提示された料金は結構バカバカしく高かったけど、俺の精神的な安心のためだと思って、2晩予約した。フロントのスタッフは、

「おふたりですか?」

って、なん回も聞いてたけど、俺は、

「いえ、俺だけです。彼はすぐそこに住んでるんで。」

それでひとり分の料金で泊れた。俺はまず部屋に入って、荷物を解いて、それから外へ出て今晩ひと晩分の酒と、ちょっとした食べ物を買って来た。ユリはずっとついて来る。この前と同じようにテレビをつけて、なるべく下らないバラエティーとか、トレンディードラマみたいな、普段絶対観ないようなものを観た。そもそも俺はテレビなんて観ない。普段と違う行動。そうだ、こないだはそれがしたかった。ユリは俺が笑いながらテレビを観ながら酒を飲んでるのを、黙って真面目な顔で見てる。少し酔って、考えたら、独りになりたかったのにこれでは意味がないので、

「俺、明日もここに泊まってるから。」

「ちゃんと帰って来るって約束して。」

「こないだと同じだから。」

彼は帰って行って、俺は余分に持って来た、抗うつ剤と抗精神病薬をと抗不安薬を酒に溶かして飲んで、テレビをつけっぱなしで寝た。


朝、遅く起きて、外に酒と食べ物を買いに行って、またテレビをつけて飲み始めた。しばらくウトウトしていたら、ノックをする音で目が覚めた。

「俺、今日は仕事だけど、夜帰って来るから。」

こないだと同じ?そうだったと思う。彼はそれだけ言って、しばらく俺のしてることを眺めて、

「明日は帰って来るんでしょう?」

「こないだと同じだから。」

俺はまた夕べと同じことをして、テレビをうるさくかけて、つけっぱなしで寝た。


朝、フロントからの電話で起こされてチェックアウトした。こないだのバーが開く時間まで、街で時間を潰す。ピアノ屋でピアノを弾く。本屋で2冊ばかり買って、コーヒーショップで読む。駅ビルにはもう違うポスターが貼られている。でも俺はその写真を撮って、ユリに送る。すぐ電話がかかってきて、

Are you OK?(大丈夫?)」

Everything is fine.(大丈夫。)」

俺は地下街に下りて、この間のバーを見付ける。俺はまた1番目の客で、その人が、

「あ、ピアノの先生。」

って、俺のことを呼んでくれる。

「また家出ですか?」

「はい。」

「でも今夜は家に帰るんでしょう?」

「明日、生徒が来るんで。」

「こないだより疲れて見える。」

「この季節が苦手なもんで。」

「なるほどね。なにかリクエストしてください。」

「じゃあこないだのショスタコーヴィチ。古い録音の。」

そこまで同じにすることに、俺は少し恐怖を感じた。あの時の気持ち。変わりたくない自分と、否応なしに変わってしまった自分。俺のどこかに、まだ昔の自分がいる。陰に隠れて俺を見ている。不幸であるはずの自分が生きて、生活を楽しんで、好きな人がいて、変な生物もたくさんいて。

「先生の家出する理由、なんですか?」

「こないだと同じですよ。」

「なんでしたっけ?」

「愛憎のもつれ。」

「どんな風にもつれているんですか?愛しているのに憎まれる?」

「そう聞かれると難しい。憎んでいるのは俺自身。」

「さすがに芸術家の言うことは違いますね。」

「それしか分からない。憎んでいるのは俺自身。」

「愛の方はどうなってるんです?」

「そろそろ愛想を尽かされる。」

「どんな人なんです?」

「年が若いんで。」

そこへなん人か客が入って来て、賑やかになって、日曜の夕方のスピーカーファンの集い。俺より少し若いくらいの世代で、新しいジャズを聴きたがった。俺のあんまり知らない音楽。バーテンダーが、気を使って、俺にもリクエストを聞いてくれたけど、俺はなにも言わなくて、普段聴いたことのない曲を聴いていた。ジャズってやっぱり悲しい曲が多い。なんでもそうか?俺の妖精達の、「アレルヤ」。あれは明るいよな。俺がいなかった間、みんないい子にしてただろうか?いい子にしてたら俺は小っちゃいピアノを買ってあげる。おもちゃのピアノの中で1番いいのを探してあげる。ジャズって誰に聴かせようとした音楽なんだろう?自分自身?酔った客?しらふで聴くような曲じゃないよな?なんでもそうか?ラフマニノフを酔って弾く。多分、もう少し面白く聴こえる。賢生は真面目過ぎるから。店はこの間より忙しい。俺はさっきの質問を考える。愛憎のもつれ。憎む方は分かってるけど、じゃあ、愛は?俺はなにを怖がっているんだろう?幸せになると、途端にそれを失うことが怖くなる。自分でも分かってるんだな。俺は彼を愛しているのだろうか?彼は俺を愛しているのだろうか?ある作家が、愛なんて、ただの言葉だから、大袈裟に考えなくていい、って言ってた。そんなのとんでもない。俺はいつでも、愛という言葉を重くとってきた。簡単に使いたくない。将来のある若者に俺みたいなウツ病持ち。おまけに死ぬこともできない。今時のジャズを聴いてて思ったけど、多少、自己陶酔が混じってるな。悪いこととは思わないけど。あんまり頭のよさそうなジャズはイヤだな。多少バカで、酔ってるのがいい。地下だから分からないけど、夜も更けて来た。さっきのジャズ連中は帰って行った。またバーテンダーが来てリクエストを聞かれたので、ヘンデルの、「ハレルヤ」をかけてもらった。なんかあっちの方の客がクスクス笑っている。笑うような曲ではない。純粋に神を讃える曲。

「先生、いいですね、この曲。」

バーテンダーは分かってくれる。

「それより先生、さっきの話しの続きですけど。」

「さっきの話しに戻るんですか?」

「年が若いから、まででしたよ。いくつ違うんですか?」

10才。」

「なるほど。」

「もっと年が近くていいのがいるんじゃないか、って。」

「でも好きなんですよね?」

「分からない。」

「なんだ、分からないんですか?」

「こないだ、俺達の夢が近いからいい、って言われた。」

「へー。」

「ふたり共、子供にピアノを教えたいから。」

「なんで家出して来たんですか?」

「俺、夏の終わりにウツになるから、鬱陶しいだろうと思って。それから色々。」

「その、色々の方にもっと興味感じますけど。」

「人を愛して、その人を失うのが怖い。」

「それはウツの考え方でしょう?元気になったら変わるでしょう?」

「お互いに純粋な所が気に入ってて。」

「芸術家ですもんね。これから帰ってどうするんですか?」

「歌を歌う。」

「へー、どんな?」

「さっきの。」

「ハレルヤ?」

家にはコーラス隊がいるから。きっと素晴らしいものになる。

「歌を歌って、それからどうするんですか?」

「レパートリーが多いから。」

「それ全部歌い終わったら?」

「普通に寝て、起きて、仕事をして、もしウツが続くようなら、また家出をするかも。」

「いつか、インターネットかなんかで読んだんですけど、子供の先生がウツ病で休職して、先生は仕事を辞めたいと思っていたら、生徒の母親が、ウツ病になるような先生にうちの子を教えてもらいたい、って。」

「精神が繊細とか、そういう意味ですかね?ウツ病なんてただの病気ですよ。」

「そうかも知れないけど。でもいい話しでしょう?」

「ユリもそう思ってるんだろうか?大きな誤解なんだけど。」

「ユリさん、っておっしゃるんですね。いいお名前。」

「ウツ病の人間が繊細、というのは精神医学的には間違いだから。帰ったら訂正しておこう。」

「普通、ウツの人は家出するんですか?」

「よくあることです。普通は家に帰らずに、なんとかするんですけど。」

「なんとかするって?」

「自殺とか。」

「それとか、考えてらっしゃる?」

「俺はドクターが怖いから、それはしない。」

「いいドクターですね。」

「まあ。でもほんとに俺のことウツ病になるような繊細な人間だと思ってるんだったら、ちゃんと訂正して、野に放ってやらないと。」

「芸術家の先生の言うことは面白いですね。野に放つ、って具体的にはどうするんですか?」

「俺には構わず、好きなヤツと付き合え、とか。」

「そんなこと言ったらね、どうなるか知ってます?」

「さあ?」

「余計に貴方の側から離れたくなくなる。」

「そんなつもりではない。」

「まあ、なにかリクエストしてください。さっきのレパートリーからなにか。」

「古い歌だから。」

「いいですよ。」

「ドリス・デイのケセラセラ。」

「ああ、俺、好きですよ。」

いいスピーカーで聴くと、まるでドリス・デイがすぐそこで歌っているような錯覚に陥る。手を伸ばすと触れそうな気がする。最後まで聴くと、とても幸せな気分になる。遠くの席に座ってる人達から拍手が上がる。

「先生みたいな人がこの曲選ぶ、って面白いですね。」

「そう?」

「ウツ病で、恋人を野に放ちたい人が。」

「俺はこの曲、よくあるアメリカのドリームだと思うだけ。夢だから、現実とは違う。」

「先生みたいな人が思う現実って、どんなものですか?」

「あんまり縁がないからよく分からない。」

「じゃあ夢は?」

夢と言われると、当然将来のことを考える。俺の幸せ。なんだか涙が出て来る。バーテンダーがペーパーナプキンをたくさんくれる。今までウツの時は、よく泣いていた。でも今回は、なぜかよく歌っている。

「やっぱり野に放つのは止めて、一緒に子供にピアノを教えた方がいいですって。」

将来のこと。俺がスタインウェイのローンを払い終わったら、彼に求婚して、俺達ふたりと、大勢の蝶の羽の生えた変な生き物達と、幸せに暮らす。涙が流れる。そんなこと、ほんとに起こるわけないのに。

「貴方の家出に対して、彼女はどう思っているんですか?」

「理解はしてない。心配はしてる。若いし、まだ不幸を知らない。」

俺は思いっきり鼻をかむ。

「そんなに泣けるんだから、やっぱり愛してるんですよ。」

急に変なアイディアが浮かぶ。あの大勢の妖精はスタインウェイのせいだから、返品か交換してもらえるかも知れない。ユリにすてられることを考えるより、将来、一緒に幸せに暮らすことを考える時の方が、ずっとたくさん泣ける。バーテンダーがもっとペーパーナプキンをくれる。こんなにいい年の男がバカみたいに泣いて恥ずかしいけど、それは彼で俺が始めたことじゃないから。努力して泣き止もうとして頑張ったら、涙が止まった。よかった、と思ってウオッカをのどに流し込む。

「家出のことを謝った方がいいですよ。そこの角に花屋があるから、バラの花でもなんでも買って。」

この前は雨が激しく降っていて、彼が傘を差しかけてくれて、でも俺がもうずぶ濡れで、意味ないね、って笑って。それを思い出したらまた止まった涙が流れ始める。

「こないだは雨が降っていて。家に帰ったら温めてくれた。」

「ビジュアライゼーションってあるじゃないですか?ふたりの将来の幸せのことを考えると、それが実現するんです。」

「やってみる。」

数年後、俺はローンを払い終わって、でもまだあのバカげた大学の講義は続けてて、ユリもますます大人のいいモデルになって、ふたりで子供達にピアノを教えて、妖精達に歌を教えて、幸せで。

「どうです?実現可能に思えてくるでしょう?」

「それはどうだか。」

「でもそうなったらいいな、って思うでしょう?」

俺は3回くらい、大きくうなずく。

「じゃあ今夜これから帰ったら、ユリさんにその夢を話すんです。」

「ええっ。」

「ウエディングとか、ハネムーンとか。」

「まだプロポーズもしてないのに?」

「夢だから。ビジュアライゼーション。」

「それは無理だな。」

「どうして?それ言っちゃったら、もう野に放せなくなるから。約束だから。」

ユリはどんな花が好きなんだろう?こないだ妖精の新色を見て、いい、って言ってたから、原色っぽいのにしようかな?それ買って、こないだみたいに40分だか歩いて、あのホテルの前を通って、変な横道から商店街に入って、家に帰る。彼は待っててくれるのかな?あきれてどこかへ行ってしまったかも。

「俺達まだ会ってすぐで、彼がどんな花が好きなのか分からない。」

「彼?そうなの?」

「ええ。まあ。」

「でもユリさん、っていうんですよね?」

「父親がウクライナ人らしい。」

「へー。じゃ、イケメン?」

「こないだまで、そこの駅ビルのポスターだった。」

「え?もしかしてあのプールの?あんな人間ほんとにいるんですね。CGだと思った。」

「普通の人だったらもっと簡単だった。」

「分かります。彼だったら、ガーベラとか、意外と可愛い系で攻めるといいかも。」

俺はたくさん、お礼を言って、また来るから、でも家出じゃない時に、と言って帰路についた。角の花屋で原色のガーベラを花束にしてもらった。濃い色ばっかり。赤とピンクとオレンジと黄色。それからなんだか知らないけど、青い小花を散らしてもらった。


しばらく歩いたら、またいつかの大通りに出た。こないだみたいにトラックが多くて、ほんとにうるさい。歩きながら色々考える。夢であれだけ泣けたんだから、あれが現実になったら俺は幸せなのに違いない。ウエディングとかハネムーンのことはまだイメージが湧かない。とりあえずふたりで生活できればそれでいい。そう考えて、10分歩くと、また違う妄想が浮かんで、これから帰ったらもう彼は出て行ったあとで、スタインウェイは見事にぶち壊されて、とかいうそういう妄想。そしてまた10分歩くと、俺が彼にピアノを教えているところ。もっと弾けるようになれば、中学生で音楽高校を目指してるような連中にも教えられる。そしてまた10分歩くと、突然ウェディングのイメージが浮かんできて、妖精たちが全員で合唱する。なにを?なにがいいかな?ウエディングの歌じゃなくて、もっと面白いのがいいな。楽しくて。曲を考えているうちにまた10分経って、もうホテルの前も行き過ぎて、変な横道から近所の商店街に出て、あっという間にマンションの入口に着いた。ここからは部屋が見えないから、電気がついてるかどうか分からない。ドアを開けてエレベーターに乗る。家のドアの前に立つ。なんだか人の気配がない。角を曲がるとバルコニーの一部が見えるんだけど、そこからも明かりは見えない。昆虫のカプセルホテルは裏側だから、全然見えない。俺はしばしドアの前で立ち尽くす。また妄想が浮かんで、ドアを開けるのがすごく怖い。でも自分の家なんだから、入らないわけにはいかない。隣のコントラバス奏者の家のネコが、小さな専用のドアから中に入って行く。あんな所にドアがあったんだ。ネコは入りがけに俺に、ミャーと挨拶する。俺はなんて返していいのか分からなかったから、ただ会釈する。3日間ほとんどピアノを弾いてなかったから、なにか弾きたい。なにを弾こうかな?ってそこに立ったまま考えていると、たちまち時間が過ぎていく。ベートーベンとかじゃなくて、もっと軽いのがいいな。ショパンのワルツ?そんな気分じゃないな。モーツァルトは面白くないし。その時、この階でエレベーターが止まって、中から背の高い人物が降りて来る。

What are you doing there?(なにしてんの、そこで?)」

彼はコンビニの袋を持って、俺を押しのけてカギを開けて中へ入って行く。

Come on!(入って!)」

中に入ると、なんかお料理の匂いがする。

「オムライス作ろうと思ったら、ケチャップがなくなってて。」

オムライスは俺の好物。よく見たら、キッチンのテーブルに綺麗なテーブルクロス。ユリはキャンドルに火をつけて、グラスにワインを注ぐ。あ、それにポテトサラダも。美味しそう。フワフワの卵の乘ったオムライスが出てきて、俺達はワインで乾杯する。妖精が5匹飛んで来て、「ケセラセラ」を歌う。

「よく教えたね。」

「みんなもいい曲だって。好きだって。」

「よかった。」

俺はとっさに玄関のクローゼットに隠した花束を持って来て、ユリに渡す。彼はなにも言わずに微笑んで、俺にキスして、軽く抱いてくれて、俺は一気にハッピーになる。

「君がもう、いなくなってるんじゃないか、って。」

「なんでそんなこと?」

「俺に愛想を尽かして。」

「あ、それはね、考えた。」

「え?」

「冗談。」

「なんだ。」

「でもね、あの家出はおかしい。だってあんな近所のホテル。」

「ゴメン。」

「それで問題は解決したの?」

「俺がこれからやりたいことを考えてた。」

「なに?」

「あのスタインウェイ、妖精がゾロゾロ出て来るのは困るから、返品か交換してもらおうかな。まだ保証期間内だし。」

「あれは弾く人の問題かも。」

「じゃあ今度、どっかで実験してみよう。」

「それ考えてたの?」

「うん。」

「他には?」

「あまりにも夢みたいなことばっかりで。今夜はバーでずっと泣いてた。」

「バー、って?」

「地下街にあるんだけど、店よりスピーカーの方が高いんじゃないか、っていうほど、いいスピーカーがあって。」

「俺、スピーカー好き。絶対行ってみたい。」

「そうだろ?あそこはこないだ家出した時に見付けた。」

「なに聴いたの?」

「ショスタコーヴィチの弦楽四重奏第8番。」

Cool!

「ヘンデルのハレルヤ。」

「へー。」

「それから、ドリス・デイのケセラセラも。すぐそこで歌ってるみたいに聴こえるんだよ。触れるほど。」

「へー、絶対行く!」

「そこのバーテンダー、君の10mのポスター見て、CGだと思ったんだって。」

「じゃあ証明しに行かないと。あれはほとんど修正なしで、業界でも話題なんだから。」

「俺は君が、どんどん大人の男の魅力で、いい仕事を続けられたらいいなって、それも俺の将来の夢のひとつ。」

「ほんと?そうなったらいいね。それから?」

「これ以上言うと、また泣くから。もう今夜は泣き疲れた。」

「じゃあ絵に描いて。」

「それでも泣く。」

俺はそう言ったんだけど、ユリは画用紙とクレヨンと、色鉛筆まで持って来てくれる。俺は妖精をいっぱい描いて、それにそれぞれ違う色を塗る。

「妖精の他には誰かいないの?」

俺はカッコいい俺のスタインウェイを描く。そこからも妖精が飛び出て来る。そこには原色の妖精。俺は子供達をなん人か描く。

「これが進士の夢なの?ずっと子供にピアノを教えるの?」

「そう、それもひとつ。」

「俺も子供に教えたい。」

「君がよければ、僭越ながら、俺が君に教えるから。そしたら君も、もっとグレードの上の子を教えられるようになる。」

「あ、それいい。」

「じゃあ、それはやっていこう。」

「もう夢がひとつかなったね。」

それから俺はワインに酔った勢いで、妖精達とかスタインウェイとかの上に屋根を描いて、俺みたいな人間とユリみたいな人間を描く。色も塗る。

「こっちが進士で、こっちが俺?」

なんだかドキドキしてくる。

「進士がいて、俺がいて。それが夢なの?」

俺はワインをグッと飲み込んで、うなずく。

「もう俺達一緒に住んでるじゃない?」

そこで酔った勢いとウツの勢いで、号泣。

「じゃあ、もう進士の夢って、かなってるじゃない?」

「俺は号泣しながら、妖精達の周りにたくさん音楽記号を描く。」

「それで妖精達に、歌を教えたいんだ。」

俺は鼻をかみながらうなずく。それからみんなの周りにたくさんハートを描く。色も塗る。

「みんなでラブラブに暮らしたいんだ。それも、もうかなってるじゃない?」

俺はまだ号泣しながら、ついでに俺達の間に1番大きなハートを描く。

「ふーん、それで俺達、ずっと愛し合って暮らしていく。それが進士の夢なんだ。なんだ、もう全部かなってるじゃない?」

号泣している俺の前に、妖精が2匹やって来て、俺の顔をじっと見る。他のもパタパタやって来て、クレヨンや色鉛筆でもっとたくさんハートを描き足す。


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