『 噴水の天使と、セックスのオーバードース』 - エッチでハッピー!!✩★✩ゲイ要素の高いオリジナル小説✩★✩
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『 噴水の天使と、セックスのオーバードース』

長編完結/あらすじ/玲真(れいま)には深刻なオーバードースの問題があった。抗不安剤の依存症で入院中、製薬会社の営業、涼雅(りょうが)から薬を盗み捕まってしまう。玲真は彼を誘惑して再度薬を手に入れようとする。涼雅は玲真に惹かれ、身内に縁の薄い玲真の面倒を見たいと申し出る。

玲真は彼とセックスをしたいがためにドクターに、「早く元気になって退院したい。」とウソをつく。カウンセラーをつけてもらい、その宿題はやりたいことを10個書いて来ること。

やっと退院した玲真はリストにある10個を実行していく。元カレのフォトグラファー、誓也(せいや)と仕事をするのもその中のひとつ。玲真は身長が高く、会ったことのない母親譲りの美形。初めての仕事はファッションブランドのモデルだった。

玲真は涼雅の知り合いでモデルエージェントの博輝(ひろき)を紹介される。彼に、「君は日本人じゃないね。」と言われて玲真は本当の母親を捜そうと決心する。玲真と涼雅は母親の姉でタンゴ教室をしている伯母を見付け、密かに体験レッスンに参加する。伯母によると本当の母はアルゼンチンタンゴの世界チャンピョンでブエノスアイレスに住んでいる。そして玲真の本当の父親はかつて母のタンゴのパートナーだった。父や腹違いの弟まで血がつながってないことにショックを受ける玲真。

本当の母は来年選手権で日本に来るという。選手権の前日、伯母の教室ではイベントを開き初心者のデモンストレーションをする。涼雅は玲真と男ふたりのタンゴを披露し、それを本当の母に見せようようと計画。特訓が始まる。

いくつかモデルの仕事を経験したが、それに納得できない玲真は誓也に、「本当の俺を撮って欲しい。」と頼む。ふたりで作品創りをしている時、玲真は自分の望まれない生を思い出す。自殺願望に取り憑かれた玲真は涼雅の車から薬を盗みだし、ホテルの部屋で自殺を図るが、涼雅は玲真のケータイのGPSから彼を発見。

再び入院した玲真。涼雅は病院のリハビリルームで玲真にタンゴを教える。やっと退院した玲真は涼雅と住むことになり、症状も安定する。モデルの仕事にも積極的になる。

玲真は伯母からタンゴダンサーの父親の名を聞く。しかし彼は自分が父親だと認めていないらしい。涼雅と玲真は彼のタンゴ教室の体験レッスンに行く。玲真は彼をホテルに誘い、睡眠薬入りのビールを飲ませ、DNAサンプルを取ることに成功。彼はほんとの父親だった。

涼雅と玲真のタンゴデモンストレーションが終わる。玲真は初めて母と対面する。玲真は、もしタンゴを習ってなかったら、自分を置いてブエノスアイレスに飛び立った母の気持ちは分からなかった、と思う。玲真は母と一緒にタンゴを踊る。




噴水の天使と、セックスのオーバードース


抗不安剤の依存症?もう薬は出せない?ふざけんじゃねえ!ってケンカして、病院を飛び出した。誰も追っては来なかった。ドクター澤村。俺が中学生の時から知っている。あの頃はまだ研修医だった。俺は、抗不安剤を飲んでる時だけ、正気になれる。1日中キャンディーみたいに舐めてたら、依存症になるに決まってるよな。大きな病院で、内科や外科や、全部あって、正面玄関を出た所に、バカみたいに金のかかった噴水があって、天使の彫刻なんかも立ってて、病院で死んだ人にお祈りしてくれる。噴水は水の勢いが強くてバシャバシャ大きな音を立てるほどで、その割には水は深くなくて、今5月で今日は曇りで、でも俺はそんなことどうでもよかったから、噴水の水の中に入って行った。周りにぐるっと花がたくさん植えてあって、その罪のなさに腹が立ったからほんとは破壊してやりたかったけど止めて、病院に来た小さな男の子が俺の方を指差して、でもお母さんは気が付かない。身体も顔も完全に水に沈んだ。水の中に横たわったって、手を胸の上で組んだ。水の流れに髪が泳ぐ。体温が水に溶け出て、動けなくなって、俺は目をつぶる。天使の足元で。問題行動。死にはしないよ。だって時々水面に出て息をしてる。人が集まって来て、入口にいた警備員が呼ばれて、俺は水の中から引きずり出された。

「なにしてんだ君!死にたいのか?」

面倒くさいから、ずーっと黙っていた。名前は?なにしにこの病院に来たの?ジーンズのポケットを探られて、診察券が盗られた。

「ドクター澤村。精神科ね。」

柔道でもやってみたいな大柄な警備員で、俺を抱えて引きずって行く。俺の方が背は高いけど、痩せ過ぎだから逃げるのは無理。それでも俺は狂人らしく抵抗して、それまで黙秘権を行使していた割には、できる限りの大声でわめく。絶対にあそこへは戻らない。ドクターに会いたくない。じゃあなんであんなことしたの?水の中に横たわって。あそこに戻されんの分かってんのに。でも水に入った時はそこまで考えてなかった。ただ問題を起こそうと思っただけ。


「お前はもう高校生じゃないんだぞ。」

俺は反抗的に目をそらす。ふつふつと湧き上がるドクターの静かな怒り。俺の肩まである髪の毛からポタポタ水滴が落ちて、床に水溜りができる。

「どっちみち、入院はさせるつもりだったから。」

ドクター、まだ若いくせに、わざと老けて見えるようなメガネかけたりして、威厳を保とうとしている。

「これだけ依存症になったら、離脱症状が出るはずだから。」

警備員はまだ俺の腕をつかんで離さない。俺も隙あらば逃げる体勢でいる。

「最後に飲んだのはいつだ?」

俺が黙ってるんで、警備員が俺の背中をどつく。俺は大袈裟に倒れるマネをする。

「3日前。」

「じゃあもう始まってるな。行動に出てる。」

そうなのか?そうかもしれない。抗不安剤が切れると、所謂、離脱症状が始まって、色んな騒ぎになる。普通、わざわざ噴水に浸かったりしないもんな。俺の場合、不安は自分自身に向かう。自傷行為や自殺未遂。他人を傷つけようと思ったことはない。必要に迫られない限り。俺は不意を突いて警備員の足を思いっ切り踏みつけて、廊下の方へ走る。びしょ濡れの服でどんなに頑張って逃げてもすぐ捕まるの分かってるけど。それでもなにか問題を起こしたい。離脱症状。捕まって、暴れて、わめいて、押さえつけられて、なにか注射されて、気が付いたらベッドに寝かされてる。鍵のかかる個室。閉じ込められた。こんな所にはいられない。不安感が増す。息が苦しい。ナースコールがあるのに俺はわざとドアを叩く。問題行動。屈強な看護師がやって来る。

「俺はこんな所にはいられない!」

ドアを叩きながらヒステリックに叫ぶ。

「なんでだ?」

「胸が痛い。息が苦しい。」

離脱症状。こんな所でひとりで置かれたら。死の恐怖。看護師がカギを開ける音。

「暴れるなよ。暴れるとこの部屋に隔離されることになるから。」

俺は悔しくて涙が出そうになる。全部自分で蒔いた種。


朝起こされると、看護師が俺の腕に血圧計を巻いている。一瞬冷っとする。

「血圧高いですね。ドクターに伝えますから。」

同じ看護師が戻って来て、抗不安剤の半分に割ったヤツをくれる。離脱症状を緩和させるために少しだけ。

「もっともらえないですか?」

俺は必死な顔をする。演技ではない。

「これからどんどん減らしていくから。」

数日前まで1日に10錠以上飲んでた。でも半分でも飲むと、不安感が薄れる。少し正気に戻ったような気がする。そこへ、ドクター澤村が、若い研修医をゾロゾロ連れて俺の病室に入って来る。挨拶も抜きで、

「次の患者は、白川玲真。20才。抗不安剤の依存症で、薬を急に止めた時に出る、離脱症状が始まっている。血圧の上昇。胸の痛み・・・」

研修医の中に真面目じゃないのが数人いて、つつき合ったり、ニヤニヤしてたり。俺はそのニヤニヤしてるヤツに向かって、枕を投げつけて、

「みせもんじゃねえぞ!!」

ドクターが続けて、

「・・・苛立ち。焦燥感。」

ソイツ等はまたゾロゾロ部屋を出て行く。俺は病室をウロウロ歩き回る。4人部屋。中年のオヤジがふたり。俺くらいの男がひとり。若いのは表情がないから、多分ウツ病。オヤジ達は知らないけど、アルコール依存症かなんか。もっと面白そうな物はないかと、俺は病棟をウロウロし始める。ここにはもう何度も入院してる。落ち着きのないのも離脱症状。俺は1日中こうやって歩き回るのか?耐えられない。


ナースステーションに行こうとして、その男を見た。完璧なビジネスマンスーツとヘアカット。見てくれのいい、多分30前くらい。そこにいたナース達は、その男を見てみんな笑顔になり、しばし談笑して、男はそこを離れる。営業向きの男。ナース達の心をつかんでる。大きなバッグの他に、小さ目のキャリーバッグを転がしている。俺の経験だと、あれは製薬会社の営業。俺はあとをつける。男はドクターのいる部屋に入って行く。持っている大きなバッグは部屋の中だが、キャリーバッグは部屋と廊下の中間みたいな場所に置き去りにされて、ドクターからも男からも見えない位置にある。俺はこっそり近寄って、その金属製の黒い物を抱えて持つ。転がすと大きな音がするのを聞いている。ずっしり重いけど、好奇心の方がずっと勝っている。


トイレの個室に入る。幸いバッグにカギはかかってない。やっぱり。色んな薬のサンプルが入っている。抗うつ剤。これも抗うつ剤。精神安定剤。これはもらっておく。また抗うつ剤。世界にはウツ病の人があふれている。抗精神病薬。これももらっておく。抗不安剤。やっと見付けた!俺のとは違うけど、確か化学構造は近いはず。あるだけその場で全部飲む。数は数えてない。水なしでも大量の薬が飲める。俺の得意技。バッグの中身を全部トイレの床にバラまく。睡眠薬?大量の睡眠薬が出て来る。これだけあれば死にたい時に死ねる。俺は興奮してくる。次のヤツ。この薬は知らない。きっと相当新しい。なんだか知らないけど、これももらっておく。俺はもらっておいた薬を全部箱から出して、上手く服の下に隠して、キャリーバックや床に落ちた薬はそのままにして、自分の部屋に戻った。袋に入れて、マットレスの下に上手く落ちないようにして、もらって来た薬を隠した。問題は、飲んだ抗不安剤の量が多過ぎたこと。そのあと2日間の記憶がない。


目を覚ましたら、腕に点滴が刺してあった。弟が俺の顔をのぞき込んでいる。

「兄ちゃん。」

なにか言おうと思ったけど、口が上手く回らない。弟の後ろに母親の影があった。この弟は母親違いで、今いるのは2度目の母で、俺の父親は病気の俺を恥じていて、俺は金をもらってひとり暮らしで、母親は暴君の父に遠慮して、俺にはあまり会いに来ない。父は成り上がり者だけど、この母は本物のお嬢様で、俺はいつも竹久夢二の絵にあるような幻想的な美女だな、って思ってた。彼女のことは嫌いではない。弟は今高校生で、仲がよくて、時々会う。

「兄ちゃんの心配してもキリがない。」

そこにいたドクターだか看護師だかが、

「もう大丈夫ですよ。」

母と弟はもう夜中過ぎだから、って帰って行った。俺はほんとの母についてはよく知らない。大きなミスコンテストで優勝するくらいの美人だったらしい。俺も物心つく頃から、男の子なのに綺麗な顔してる、とかそんなことを言われた。2度目の母なのに、お母さんにそっくりの美形だって言われた。どうでもいいけど、そんなこと。ほんとの母にもらった唯一の物。せっかく手に入れた死ねるほどの睡眠薬のことが気になって、まだよく喋れないくらいだったら、多分まだ歩けないなって思ったけど、どうしても気になるから、ベッドから降りてみた。そしたらやっぱりそこからは動けなくて、床に座ったままで、そのドクターだか看護師だかに怒られた。

「ここ、どこですか?」

「ここは内科だよ。」

ベッドに戻されて、部屋の電気を消された。この病院は隅々まで知ってるから。内科と精神科はかなり遠い。大分歩けるようにならないと、薬を取りに行けない。また床に落ちて、少しずつ這ってトイレに入った。シンクによじ登って、水を大量に飲んだ。飲みながらも何度も床に崩れ落ちた。身体に力が入らない。頭にあるのはあの睡眠薬のことだけ。他のことはどうでもいい。何時間もトイレで水を飲み続けて、身体の毒を流して、そしてバカみたいにあの薬のことを考えた。でも、こんなことできるのも、優しい母が個室に入れてくれたお陰だって一瞬思って、でも俺はそれを悪いことに使おうとしている。


昼くらいになったら、やっとつかまり立ちくらいできるようになった。内科という所は精神科と大分違う。開放されている。精神科みたいに逃げるヤツがいないから、カギもかかってない。それは俺にとっては好都合で、窓の外を見ながらどうやって精神科までたどり着こうか、ということを考えた。どの棟かは分かってる。病院のメインの建物を通らないといけない。どっちみち身体がよくなったら、精神科に戻されるんだけど、それまで薬があそこにあるとは限らない。どうしても今日中に行きたい。面会時間が終わるまでに病棟に入る。俺のことを知ってる看護師がいないといいけど。っていうか、そういう人はあまりいない。よっぽど新しい人くらい。俺は札付きだから。薬のことしか考えてない。これも一種の不安症状。夕方俺は上手く内科を抜け出した。途中、廊下に車椅子があって、少し借りることにした。車椅子に乗ったことがないから、きっとぎこちなく見えるだろうな、って少し心配になって、車椅子を押して行くことにした。それでも大分歩く速さが違う。メインのエントランス。まだ落ちきれない太陽が眩しい。大きな絵がかかっている。幅が3m以上ある、横長の抽象画。それに感じる感情はなにもない。なにかが間違ってる。洗練を装ったなんの意味もない絵。その絵の側を曲がると、そこが精神科のある棟。早く行かなければと、心が焦る。足が時々もつれる。精神科のドアが見えてきた。車椅子を置いて、さり気なくドアを開けて中に入る。ナースステーションにいるナースにチラッと顔を見られた。でもなにも言われなかった。俺のベッドが見えてきた。なんと、誰かがその上にいて、本を読んでいる。女性。中学生くらいでウツ病の患者。1度話しをしたことがある。どうしようか考える。薬は服の下に隠せる。それは紙の袋に入っている。でもこの病棟からどうやって出る?マットレスの下から出して、もっと見付からない所に隠す?それより俺はその睡眠薬を今、ここで全部飲んでやりたい衝動に駆られる。そうすれば精神科からどうやって内科に帰るのか、とか、薬をどこに隠せばいいのか、とか、この先抗不安剤がなくてどうやって生きていけばいいのか、とか、そういう問題が一気に解消される。俺はそのウツ病の女性に近付いて、

「ゴメンね。俺、ここのベッドに寝てて、忘れ物しちゃって。」

彼女は読んでる本から半分顔を上げて、

「うん、いいよ。」

俺はベッドの下に潜る。彼女は変だと思ってるのかな?きっと本に夢中になってる。薬は奇跡的にまだそこにある。手を伸ばして、夢にまで見たその物をマットレスの下から取り出す。その瞬間、誰かが俺の腕をきつく握って、薬の入った袋が横取りされた。


「こんな所にあったのか!」

俺は力なく、

「俺の。」

と呟く。

「俺の、じゃないだろ?俺のキャリーバッグから盗ったんだろ?」

「返して。」

「会社にバレたら首だぞ。こんな大量の睡眠薬。」

「俺のだから。」

「これ、どうするつもりだった?」

「今、ここで全部飲んだら、許してくれない?」

「手間ひまかけさせて。歩けるようになったら絶対すぐ来ると思ってた。」

「ここにはいられない。」

「どこに行くつもりだ?」

「戻って来られない所に。」

その製薬会社の営業は俺を引っ張って、みんなが食事する部屋に連れて行く。

「会社を首になるとか、ほんとはそんなことはどうでもいいんだ!この薬で誰か死んだら困るだろ?」

そんなに怒鳴らなくっても聞こえてるし。その部屋には数人患者がいて、みんな俺達の方を見ている。大きな古い冷蔵庫がうるさい音を立てている。俺は彼の持ってる紙の袋を凝視して、

「半分でもいいから返して。」

「お前、あの抗不安剤、全部飲んだんだってな。よかったよ。死ななくて。死んだらどうしようかと思った。」

「あれは死のうと思ったわけじゃなくて。」

「死んでもおかしくない量だぞ。お前、どういう病気だ?診断名は?」

俺は自分でもすぐ忘れちゃうんで、少し考える。

「自分の病気知らないのか?」

「統合失調感情障害。不安障害。強迫観念。あとはよく知らない。」

「要するに、なんでもかんでもってことだな。今はなんでここに入院してる?」

それもよく考えないと思い出せない。

「なんで入院してんのか忘れたのか?」

「抗不安剤の依存症と離脱症状。」

廊下から誰かが拍手しながら入って来る。ドクター澤村。

「よくできました。そんなんで入院してて、オーバードースしてどうする?」

いつもすぐ怒るのに、なぜか朗らか。この営業がいるからかな?仲いいのかな?ドクターが、

「玲真、今夜からこっちに泊っていいから。」

俺はため息をつく。

「ため息つきたいのはこっちの方だぞ。」

営業に向かって、

「この子は俺の初めての患者で。」

そうだったんだ。知らなかった。この子って?20才過ぎて、背も185㎝ある俺のこと?営業が、

「玲真さんか。俺は、加藤涼雅。よろしく。」

俺はソイツから目をそらして、ため息をつく。ソイツは、

「ため息つきたいのはこっちの方だって。全く。窃盗で被害届出してもいいんだぞ。」

「お好きにどうぞ。」

ドクターが、

「君のお母さんと弟さん、挨拶に見えたぞ。心配させるな。」

死んだら弟が悲しむな。死ななくてよかったかもしれない。弟のことを考えたら泣きたくなってきた。ごまかそうとしたけど、涙が1滴頬を伝う。今度はドクターが、

「ほんとに反省してるんだったらいいけど。」

って、ため息をつく。


抗不安剤の離脱症状の他に、強迫観念が止まらない。あの睡眠薬。死ねるほどの量はあった。十分過ぎるほど。なにが悪かった?どうして失敗した?そう1日中考える。毎日。ヴィジュアルも浮かぶ。あの時アイツに盗られた。睡眠薬のことを考えていると、自然、アイツのことも浮かぶ。いかにも爽やかな製薬会社の営業です、って顔をして。腹が立つ。アイツのビジネススーツも、ヘアスタイルもみんなウソの塊に見える。あんなヤツのことを1日中考えてるのも腹が立つけど、それは自分では止められない。抗精神病薬が効いてない、ってドクターに言ったら量を増やしてくれるだろうか?ドクターを目の前にすると、言うのをすっかり忘れてしまう。ここでも母が個室に変えてくれた。シャワーを浴びて、タオルで拭いて、それからなにをしていたのか思い出せなくなる。部屋の真ん中で立ち尽くす。ドアをノックする音がして、涼雅が首を出す。

「なんで裸なの?」

「知らない。」

彼が毛布を肩からかけてくれる。

「着る物がない。」

「着る物がないって?そこにあるじゃない。」

椅子の上を指差す。俺はもう1回素っ裸になって、そこにある病院服を着る。変な茶色の。世の中で1番醜い茶色。ヤツは営業のカッコはしてるけど、バッグは持ってない。きっとナースステーションにでも置いてあるんだな、って思って、部屋を出てそっちの方へ向かう。カウンター越しにのぞくと、やっぱりヤツの大きなバッグとキャリーバッグが置いてある。もちろん中へは入れないから見てるだけ。俺の強迫観念。1日中。毎日。固まって身動きできずに見詰めていると、後ろから両肩を軽く触られる。彼は俺の腕を引っ張って食事の部屋に連れて行く。丁度ランチが終る頃の時間で、そこにはまだたくさんの人がいて、きっと、わざとそういう人のいる所に俺を連れて行きたいんだな、ってぼんやり思う。俺はどこにいても考えることは同じ。あの黒いキャリーバッグの中に入っている物。

「昼メシ、食ったの?」

俺は静かに首を振る。あんまり激しく振ると、眩暈がする。

「朝は?」

俺はまた黙って首を振る。

「夕飯は?」

「やることがないから。」

「どういう意味?」

「ハンスト。」

「他にやることがないから、ハンストしてるんだ。珍しい人だな。」

「少しずつでも死に向かっている。」

涼雅は俺の髪に触って、

「この赤いの、自分で染めてんの?」

俺はうなずく。俺達のいる席は窓から太陽の光が入って、俺の髪が特別赤く見える。

「よく似合うからいいけど。」

俺は髪が性感帯で、触られると、俺の身体が過去の色々なセックスを思い出す。少しボーっとなって、今触られた方の彼の手を見詰める。厚くて大きくて男らしい手。それから彼の顔を見る。身体は筋肉質でガッチリしてるのに、顔は細くて鋭い感じで、ちょっと頬がこけてて不思議。目もキリっとしてて鼻も細くて高いし、唇は薄い。俺がいつまでも彼の顔を見てるんで、

「なに?」

「俺、髪に触られると・・・」

「なに?もしかして、変な気分になるの?」

「そう。」

「マジで?」

彼はもう1度俺の髪に触る。

「止めて。マジで。ヤバいことになる。」

さすがに俺の髪から手を離す。俺はまた涼雅の顔を見る。そして無意識に自分の唇をなぞる。

「俺はそれ、ヤバいな。」

「なに?」

彼は俺の唇に触ってる方の手を取る。

「よく言われるけど、無意識。」

「そうなの?」

「俺達、きっとセックスの相性がいい。」

「え?」

「俺、そういうの分かる。」

「あ!」

「なに?」

「俺のこと誘惑して、俺のバッグを狙ってる。」

「それはいいアイディアだけど、これは違う。」

俺はテーブルの下の彼の太ももに手を乗せる。

「君、そんなことより、食べないと。なにか買って来てあげようか?」

俺の必殺、流し目と微笑み。

「なにも食べたくない。俺は食べないと性欲が増すから。」

涼雅は、

「こういうの、久し振りだな。」

って笑い出して、太ももの上の俺の手をどける。俺は拗ねて唇を突き出す。男はここで絶対キスしてくれる。周りにこんなに人がいなければ。涼雅は周りに聞えないように、俺の顔に近付いて囁く。

「ここを出ないとなにもできないぞ。」

それもそうだよな。製薬会社の営業が病室で患者となんて。俺は諦めて立ち上がって、冷蔵庫を開けて、余ってたオレンジジュースを飲み始める。

「なにか買って来るから、食べたい物を言え。」

考えるけど分からない。

「大根おろし。」

「なんだそれ?下のコンビニにあるヤツじゃないと。」

「和風ハンバーグ。大根おろしが乘ってる。」


ほんとにそこまで考えてたわけじゃないけど、確かにいいアイディア。アイツと仲良くなると、チャンスが増える。今度は絶対その場で全部飲んで、また噴水の中に入って、横たわって、胸の上で手を組んで。天使の足元で。そしたらもう息をしに水面に上がる必要がなくなる。こんなに人の多い部屋にいるのは久し振り。お見舞いに来てる人も何人か混ざっている。この人達はなにが楽しくて生きてるんだろう?ウツ病の人は別に楽しくないかもしれないけど。一気に死ねるチャンスがあるんだったら、俺はそれを逃さない。病院って変だよな。俺は大抵ウツ病患者と同じ病棟に入れられる。どういう基準があるんだろう?俺には幻聴も幻覚もあるけど、本格的な統合失調症患者に会ったことがない。俺には気分障害もあるけど、躁状態の患者にも会ったことがない。アルコール依存症患者だけはどこにでもいる。認知症患者もここにはいない。俺を大雑把にカテゴリーに入れるとすると、ウツ病なんだな。これだけ自殺未遂してれば当たり前か。そんなことを考えていると、涼雅がコンビニの袋を下げて帰って来た。

「え、あったの?」

「ああ。」

俺は和風ハンバーグの上に乗ってる大根おろしを食べる。多分おろしてから時間が経ってるけど、それなりの味はする。温める時に一緒に温まっちゃったけど、それもいいとする。死ぬ前にこれが食べられるとは思ってなかった。

「ありがとう。」

俺は箸を置く。周りを見渡す。まだ人がいる。あとで病室に戻ったら、お礼のキスくらいできるかもしれない。俺が彼の方を見ると、あっちも俺のことを見ている。

「あとの物はどうした?」

「あとの物って?」

「ハンバーグとか。」

「しばらくなにも食べてなかったから。」

「だったら食え。」

「だから食べられない。」

「早く退院したいんだろう?」

「どっちみち当分無理だし。」

彼は箸をとってハンバーグを小さいブロックに切っていく。俺はこの人の手が好きなんだな、って気付く。ちょっとだけそれに触ってみる。

「なにしてんの?」

恥ずかしいから言うの止めようと思ったけど、言ってしまった。

「手がいいな、って。」

彼は手を止めて、笑い出す。

「お前、そういうのだけは上手いな。」

「ほんとだから。」

「早く食え。」

大根おろしが入ってたのに、なぜかたくあんも入ってる。ちょっと恥ずかしかったけど、それをパリパリ言わせながら食べる。そしてまた箸を置く。

「箸を置くな。続けて食え。」

俺は箸を持って、そのまま固まる。

「食べないと美貌が台無しだぞ。肌がカサカサしてる。」

上手いところを突いてきたな、って俺は涼雅のことを睨む。俺は他に褒められることがないから、ナルシシスティックなところがある。

「なんで睨むの?」

「上手いことを言うなって。」

「製薬会社の営業はバカじゃできないから。相手の気持ちを読む。」

「なるほどね。」

俺は小さく切られたハンバーグを口に入れる。

「ご飯はどうした?ご飯が寂しがってるぞ。」

俺は長い時間をかけて、遂に完食する。テーブルに出てる彼の手に触ろうとする。

「変なことすんなよ。人が見てる。」

「じゃあ一緒に俺の部屋に行こう。」

俺は得意の意味深な眼差しで、涼雅を見詰めて、ちょっと首をかしげて微笑む。

「お前、ほんとにそんなことだけ上手いな。」


ふたりで並んで廊下を歩く。俺は手をつなごうとしてハタかれる。

「お前ほんと背高いな。俺だって180あるんだぞ。」

涼雅は背が高くて、手足が長くて、手も大きくて、そこのところが気に入ってる。部屋に着く。

廊下側に大きなガラスがはまってるから、変なことはできない。バスルームでセックスしてバレても、俺は全然いいけど、あっちが困る。ベッドに座って、俺の横のスペースをポンポンって叩いて、彼を呼ぶ。彼は俺の誘惑には惑わされず、離れた椅子に腰かける。

「お前、入院してない時は、なにしてる?」

「金のある時は、酒を飲んでいる。」

「金のない時は?」

「セックス。」

「身体売ってんの?」

「好きな人としかしないよ。あ、でも時々イヤなヤツともヤる。でもそれはハイの時だけ。」

「気分障害もあるんだよな。複数あると治療が極めて困難。でもなんで死にたいの?」

「そこに睡眠薬があるから。」

「じゃあ俺、もう睡眠薬のサンプルは持ち歩かない。」

その瞬間、俺の頭の上にあった睡眠薬のイメージが、電気がパッと消えたように突然なくなった。俺は自分の頭上を見渡して、それから彼の方へ目を落とす。

「君は目に特徴があるな。不健康な魅力。」

「目?」

「そう。少し腫れぼったくて、やつれた感じ。クマがあって。化粧が似合いそう。」

「なんでそんなこと分かるの?」

「俺、昔雑誌の読者モデルとかしてたから。高校生の時。小遣い稼ぎに。」

「へー、だからなに?」

「だから、ファッション業界とかモデル業界に興味あったんだけど、俺、頭よくて理系だったんで、堅気になった。君を見てると思い出す。その頃の迷い。」

確かにこの爽やかな営業スマイルは、どこに行っても通用する。

「モデルやらないか?って聞かれるだろう?」

「俺、知らない人からは逃げるから。でも写真は撮らせてるよ。」

「そうなの?」

「好きな男に。裸の写真。」

「ヤバいんじゃない?」

「プロのフォトグラファーとヤってた時、写真撮らせて、写真の雑誌に載ったよ。最近だよ。」

「へー、見せて。」

ファッションフォトグラファーなんて、ファンシーな仕事の割に男臭いヤツで、モノがでかくて、それが俺のケツに沈む時、いつも身体中に震えが走った。ケータイで写真を見せる。

「わー、フルヌード!この人、君の目の魅力がよく分かってる。北山誓也か。才能あるな。まだ付き合ってんの?」

「付き合ったことはない。ただヤらせてるだけ。」

「じゃあまだヤらせてんの?」

「抗不安剤を1日中しゃぶってた時、病院にぶち込まれそうになったから逃げた。」

「今、好きな人はいるの?」

「いない。」

「じゃあ、俺のことは?」

「別に。ヤりたいだけ。」

「え、そうなの?ガッカリだな。」

「なんで?」

「君のことが好きになりそうだから。」

「なんで?」

「美形で、正直で、世話が焼けそうだから。」

「世話を焼くのが好きなの?」

「そう。性格で。」

「俺の世話を焼く人はいないよ。」

「よかった。じゃあ、また来るから。世話を焼きに。」


俺はあの時までずっとあの睡眠薬のことを考えてて、それが俺の強迫観念だったけど、睡眠薬が消えて、なにを標的にするのか、俺の強迫観念が考えている。俺にコントロールする権利はない。脳が勝手に判断する。意外にも涼雅のことは考えない。強迫観念は中学生の頃からあって、ドクター澤村を悩ませた。同じことを1日中、毎日考えて、それが何年に及ぶこともある。俺が探さなくても、いつもあっちからやって来る。効く薬は見付けたけど、他の薬とのバランスが難しい。だから他のもっと大事な薬を優先して、俺の強迫観念は俺だけの苦しみで、だから自殺願望なんかよりはないがしろにされてて、でも俺にとってはどっちも同じように苦しくて、その苦しみのために自殺願望が起こるから、だから俺にしては同じことで。誰かが俺の部屋のドアをノックする。俺は布団の下に隠れる。ソイツはしつこくノックする。俺は布団から目だけ出して、ガラス窓から廊下を見る。そこには背の高いイケメンの男。きっと俺を殺しに来たか、そうじゃなくても傷付けに来た。昔、俺のカウンセラーが言ってた。そういうことは生活してて普通には起こらない。その男はドアノブを回す。カギはついてないから、ドアが開く。俺はベッドの下に隠れて、なんとか部屋の外に出ようとする。男の足の動きを見ながら隙を伺う。でも男はベッドの上に乗って、俺の視界から消える。俺はドアまでダッシュする。部屋の外を出た所で、男が俺の腕を捕まえる。

「玲真!」

俺はもうダメだ、殺されると思って男の顔を見る。

「俺のこと分からないのか?」

「俺を殺しに来たんでしょ?」

「妄想だ。離脱症状だな。ドクターに話したのか?」

俺は廊下に座り込む。いつも死にたいと思ってるのに、なんで殺人者を怖がるんだろう?意味が分からない。狂人の思考。

「立てるか?ドクターを探しに行こう。」

俺は、立って、走って、看護師に捕まって、抗不安剤の欠片をもらって飲んで、我に返る。これだけよく効くから依存症になる。

「玲真、大丈夫?」

「涼雅。」

部屋に戻って横になる。彼はグレーの質のいいシルクのシャツと、デザインの凝ったストライプのパンツを穿いて、短く刈った髪のてっぺんを立てている。

「典型的な離脱症状だな。」

「もう、疲れた。」

目に入るヤツがみんな殺人鬼に思える。妄想。いつまで続くのだろうか?人々の悪意を感じる。俺に対する憎しみ。みんなが俺を傷つけようと機会を狙ってる。

「みんなが俺に悪意を持っている。」

「もうじきよくなるから。」

「いつ?」

「数週間?数カ月?俺はドクターじゃない。」

そんなに待てるわけない。気の遠くなるような時間に思える。涼雅が厳しい調子で、

「離脱症状より、そのあとが大事だ。もう薬の乱用はするな。」

でも、俺は全然反省してないし。ここを出たらまたなにか探して、依存症になる。死ぬまでこれを続ける。それは確か。

「今日は仕事じゃないけど来てみたんだ。よかった来て。玲真、ちゃんと食べてるの?」

その質問の答えは難しい。覚えてない。

「怖くて人に近付けないから。」

「じゃあ、全然食べてないんだ。看護師に、これからは食事をここに持って来てもらうように言うから。」

涼雅は俺の額にかかった髪をどかしてくれる。その手がとても柔らかくて、温かい。

「髪の毛に触っちゃいけないんだったな。」

彼は優しく微笑んで俺の顔を見て、

「俺のことは怖くないんだろう?」

「怖くない。涼雅は味方だから。」

「なにか買って来てやる。なにが食べたい?」

また難しい質問。

「くず餅。」

「そんなもん、コンビニに売ってないだろ?」

「じゃあ、アイスクリームかプリンかゼリー。」

「それ全部買って来てやるから。でもちゃんとした物も食え。なにがいい?」

「そば。」

「分かった。なんかそんなような物買って来るから。」

「あの。」

「なに?」

「なんでそんなに親切なんですか?」

「こないだ君の世話を焼くって言ったろ?」

俺は彼の後ろ姿を見詰める。製薬会社の営業の休日の姿。あんまりイケメンで照れてしまいそう。あの人をガッカリさせてはいけないと思うけど、きっとガッカリさせるようなことばっかりするような気がする。


夢を見た。夢なんてめったに見ないのに。俺があの噴水に沈んでて、でもなぜか普通に息ができて、目もちゃんと見えて、青空で、天使はいつも真っ直ぐ前を見てるのに、頭を垂れて俺の顔を見てて、水の冷たさは感じないけど、水の流れで俺の身体が揺れて、髪の毛も揺れて。よくある夢の話し。

「玲真、肌が綺麗になってきた。」

今日も涼雅が来てくれた。

「ほんと?よかった。」

今日は営業スタイル。仕事の帰りに俺の部屋に寄ってくれた。

「だからちゃんと食べること。」

「うん。」

彼のお陰で、いつも看護師が食事を部屋に持って来てくれるから、助かってる。

「身体が元気になると、気持ちも元気になる。」

俺はそういう健康的な話題は苦手だ。健康になるということが、俺をナーバスにさせる。

「退院したら涼雅と1日中ベッドにいる。」

彼はなぜか吹き出す。彼はまた俺の性感帯の髪に触れて、

「少し伸びたな。またこの色にするの?」

「俺の髪触るの好きなの?」

「つい。」

俺はコッソリ彼の営業バッグに近付いて、中をのぞく。大した物はないな。精神科の薬がほとんどないから、俺はそれらがなんの薬か分からない。そしたら、バッグの1番底に、コンドームの箱。

「あれっ、怪しい!」

「なにしてんの?」

「なにもしてない。」

「それはサンプルだから。」

「涼雅のメーカーじゃない。」

「目ざといな。俺だってな、健康的な若い男なんだから。」

「あ、そうですか。」

俺は子供みたいに、彼のバッグをかき回す。

「おいおい、君の欲しがるようなものはなにもないよ。」

俺はコンドームの箱の中身を床にぶちまけて、数を数える。

3つ足りない!どんなヤツ?」

こないだ涼雅のこと、好きなわけじゃなくて、ただヤりたいだけ、って言った割には穏やかじゃない口調。

「別に君に全てを話す必要はないし。」

「あ、そうですか。」

「君は俺とただヤりたいだけなんだろう?」

俺はベッドの上にお行儀よく座って、両手を膝の上に置いて、

「こないだのは、間違いでした。」

「じゃあ、俺のこと好きなの?」

「はい。好きです。」

涼雅は部屋のドアを開けて、首を出して、右と左を見て、俺の所に来て相当卑猥なキスをする。頭の後ろをグッと押えて、逃げられないようにしておいて、俺の口を口で開けて、それで思いっ切り舌を入れて、口の中を舐め回す。素早いキスだったんだけど。俺がボーっとしていると、

「どうだった?」

「抗不安剤よりいい。」

「よし、これで依存症が治る。」

涼雅は得意顔で帰って行った。


やっぱりあの男、セックスは上手いな。たった3秒であのキス。この病院から早く逃げ出さないと。それ前もやったな。見舞客に隠れて外に出る。ドクターに怒られた。正攻法でいくと、退院するためには、この離脱症状とやらをなんとかする。よくなった、ってウソをつく?俺のドクターにウソはつけない。いつも見破られる。俺がハイで入院した時。好きな男がいて、ソイツとヤりたいがために、もう大丈夫と言ったら、君はまだハイだ、顔に出てる、とか言われた。あの時と今とやってることは同じだな、男とヤりたいがために。このじりじりする焦燥感は、離脱症状なのか?それともただヤりたいだけなのか?噴水の天使に聞きに行こう。きっと彼女なら知ってる。天使って女性なの?あの天使は女性の顔をしている。俺みたいに男だけど、女みたいなのもいるけど。それでも俺のこと好きになってくれる男達がいる。あのフォトグラファー、いいヤツだったけど、俺には真面目過ぎたんだよな。アイツもセックスはよかったな。アイツにならどれだけでもヌードを撮らせてあげる。どんなポーズでもしてあげる。連絡取ったらどうなるかな?セックスはもうしないけど。ほんとに?ダメだよな?涼雅の手前。ラインだけしてみよう。

「今、入院してる。写真雑誌観ました。」

意外なことに、すぐ返事が来る。

「入院してるの。よかった。心配してた。」

「ゴメンね。」

別に悪いことをしたつもりじゃないけど。

「今、パリで仕事してるけど、来週帰るから。」

へー、パリか。カッコいいな。俺はソイツとはヤるだけだったから、ソイツのことはあんまり知らない。なんだっけ?北山誓也。ウェブサイトがある。美術大学を出て、ファッションフォトグラファーとして世界で活躍。ふーん。俺の写真もある。ギャラもらってやろうか?面倒くさいからいいか。酒が飲みたい。コイツとはよく飲みながらヤってた。俺がウォッカと一緒に精神科の薬を山ほど飲んで。なんであんなことしたかというと、色が綺麗だったから。薬ってパステル系の色が多くて、手の上で混ぜると綺麗な配色になって、下手な絵よりずっと美しい。そう思ったから。アイツが俺に入れて、アイツがイく瞬間、俺の意識がなくなって。ほんとにやってることは今と変わらないな。進歩も反省もない。でも退院しないと涼雅とヤれない。


俺がしおらしく、早く健康な身体になりたいです、なんてバカみたいな演技したもんだから、ドクター澤村がカウンセラーをつけてくれた。今日が初日。イヤに流行っぽいカッコをしたメガネの男。年は多分涼雅くらい。見たこともないようなデザインの靴を履いている。先の尖った。ブーツの短いヤツ?よく分からない。

「なんでここに入院したの?」

いきなりそう話しかけられた。前のカウンセラーはなんにも言わない人だったから、俺がひとりで喋ってた。だからちょっと不意を突かれて、返事が遅くなった。

「覚えてないんだったら、覚えてることから言って。」

「あの、天使の噴水に落ちて。」

「あの入口にあるヤツ?」

「はい。」

「どうやったらあんな所に落ちるの?」

「気がついたら水の中に横たわって。」

「詩的だな。気がついたら天使の噴水に横たわっていた。」

「はい。」

「で、それからどうなったの?」

「ええと、警備員に捕まって、入院。」

「なんの容疑で入院したの?」

「ええと、抗不安剤のオーバードース。」

「君の診断名はなんなの?」

「よく分かんないんですけど、統合失調症と双極性障害と不安障害と強迫観念がミックスした感じらしいです。」

「ふーん。で、オーバードースしてどうなったの?」

「目が覚めたら内科にいて、母と弟がいて。」

俺が眩しそうに瞬きをするので、

「なに?窓、眩しい?」

「そうじゃなくて、その時のこと思い出したら、眩しかったことがあって。」

「なにが?」

「内科を脱走して、そしたら途中の病院の入口の所に絵があって、それがあんまりひどいから、それで思い出して。」

言ってること分かってるとは思えなかったけど、意外と俺の話しに突っ込んだりしなくて、

「君、絵に詳しいの?」

「そうじゃないですけど、良し悪しくらいは分かります。」

「僕ね、絵を買おうと思ってるんだけど。」

「へー。」

「ほら、これ、ニューヨークの若手画家。サイズは小さいんだけど。」

「俺に意見聞いてるんですか?」

「まあ、差し支えなければ。」

「この絵ね、いい絵ですよ。オレンジと黄色が絡まり合って。でもね、わざわざ送料とか保険とか払って買うんだったら、日本の画家の買った方がよっぽどいいですよ。実物観て買えるし。」

「ふーん、そうかな?」

「そうやってお金持ってる人達、ニューヨークがカッコいいとかって、買いますけど、日本人の画家の絵だけをコレクションしてる人って、世界でも珍しいから、その方がカッコいいですよ。」

「そういうのどうやって学んだの?」

「常識ですよ。そんなの。失礼かもしれないけど。」

「君はなに?学生さん?」

「違いますよ。やっとこないだ高校を出て。20才にして。もう少しで弟に追い越されるとこだった。」

「じゃあ、普段はなにしてるの?」

「酒飲んで、男と寝てる。」

「じゃあ君、ゲイなの?」

「はい。俺ね、早くここを出たいんですよ。」

「それは僕が協力するから。」

「実はね、この病院ですごいイケメンと知合って、その人絶対セックス上手いんですよ。」

「なるほど。早く試したいんだ。」

「はい。」

「動機としては悪くない。問題は君がここから出て、ちゃんとやっていけるかどうか。」

「大丈夫です。その人こないだ誰も見てない時、キスしてくれたんですけど、それがまた、抗不安剤よりいい感じ。」

彼は黙ってて、なんか考えてるんだか知らないけど。

「それからその人いい人で、俺の世話を焼いてくれるんです。和風ハンバーグ弁当も買って来てくれた。大根おろしが乗っかってるヤツ。」

それからまだ考えてるみたいなんで、しょうがないから、俺も黙ってみることにした。そしたら意外なことに、涼雅のことに興味を示す。

「その彼、なにしてる人?」

「製薬会社の営業です。」

「へー、じゃあ、薬や病気に詳しいんだ。」

「はい。俺がバッグから睡眠薬どっさり盗んで捕まった。」

「それが馴れ初めなんだ。ドラマティックだな。」

「早くこっから出たいんですよ。」

そしたら、あっちがまた黙ってるんで、こっちも一緒に黙って、そしたら、

「じゃあね、今度までに退院したらやりたいことを10個書いて来て。それをふたりで考えてみよう。」


部屋に帰って、俺はさっそくその課題に取り組んだ。10個?俺の人生はそんなに長くない。どんなことを書けばいいのか分からない。自分の将来に興味がない。ちょっとズルをすることを思い付いた。涼雅にメールして助けを頼んだ。

「将来のことについて考えたことがないから。」

「単純なことでいいんじゃないのか?」

「どんな?」

「くず餅買いに行って食うとか。」

「あ、それしたい。絶対する。」

「だから、そういうことを書けばいいんだ。書いたらメールして。楽しみだな。」

ランチの時間になって、看護師が部屋まで運んでくれて。サンドイッチ。代わり映えのしない。でもしょうがないから、ちゃんと食べる。食べて、なんとか頑張って半分くらい書いて、あとはどうしても出て来ないから、それだけでも涼雅にメールすることにした。

「その1、くず餅を買いに行って食べる。」

「いいな。そんなに栄養あると思えないけど。」

「その2、渋いバーでクールに飲む。」

「へー。」

「俺、20才の誕生日直前に入院したから。それできなくて。まあ、それまでも散々飲んでたけど。」

「いいな、俺も一緒に行きたい。」

「カッコいいスーツとか着て。その3、ホテルの最上階のバーで飲みたい。夕暮れ時に早目に行って、窓際の席で夜景を見ながら。」

「いいな、俺も行く。」

「お洒落な食べ物をつまみながら。」

「ふーん。それから?」

「その4、もっと暑くなったら、デパートのビアガーデンに行って、生ビール。」

「飲むことばっかだな。」

「だから20才直前だったから。」

「その5はね、色々考えたんだけど、俺んち、古い薬の残ったヤツいっぱいあって。俺って中学生の時から精神科の薬飲んでるから。それちゃんと整理して。」

「偉いな。しっかり片付けて処分するんだ。」

「じゃなくて、イザという時にすぐ出せるように準備しておく。」

「イザという時って?」

「死にたくなった時。」

「それは書くなよ。」

「でも。」

「深刻なオーバードース問題抱えてるな。そのうち内臓がやられる。」

「そうかな?」

「もっと健康的なことはないのか?」

「健康的なことを考えると落ち込んでくる。」

「ほんとに酒飲むことばっかだな。」

「まだある。」

「なに?」

「こないだのフォトグラファーにまた写真撮ってもらう。来週パリから帰って来るって。」

「え、またヌード?」

「知らない。ヌードはいつもヤったあとで撮ってたから。」

「じゃあ、その時俺も行く。酒のことは書いてもいいけど、1個だけにしろ。」

「分かった。」

「薬のことは絶対書くな。」

「そんなことしたら、他に書くことないよ。あ、そういえば。」

「なに?」

「こないだそこのロビーのテレビで、冷蔵庫の整理の仕方とかやってて。冷蔵庫ってそんなに食べ物入れるもんなんだな、って。俺んち、フリーザーは氷とアイスパットだけで、下はクラブソーダとライムとビールしか入ってない。」

「電気代の無駄だな。じゃあ、冷蔵庫に入れる物のリストを作れば?」

「アイスクリームとプリンとゼリーと大根。」

「あとは俺が書いてメールしてやる。それにしても、くず餅とバーと写真と冷蔵庫。まだ4つだな。」

「それは涼雅が色々カットするから。」

「頑張って書け。カウンセラーに見せる前に俺にメールしろ。」


結局涼雅は仕事が終わったあと、病院に来てくれた。営業スーツで、それはそれでセクシー。営業バッグは持っていない。きっと車の中に置いてある。

「カウンセラーに会うのはいつだ?」

「明日。」

「もっと明るい未来を想像するんだ。」

暗い絶望だったらいくらでも。

「っていうか、もっとくだらないことでいいんだ。」

「あ、弟と渋谷に服買いに行く約束してた。」

「よし、それが5個目だ。」

「あ、それから今度、この髪グレーっぽいグリーンにしたくて。」

「そんな色、どうやって作んの?」

「グレーとグリーンを混ぜて。」

涼雅はまた俺の髪に触る。

「大分印象が変わりそうだな。」

「誓也は赤が好きじゃなかった。」

「誰それ?」

「フォトグラファー。」

彼はまだ俺の髪に手を入れて梳いてみたり、空気を入れてみたり。

「長いのは似合うよな。」

「俺、もうダメ。」

「ゴメン、ゴメン。」

「あと4個もあるよ。」

「この際、アレも入れろ。」

「なに?」

「デート。」

「彼氏とラブラブなデート。」

「なんでもいいからそういうこと。」

1日中ベッドでセックス。」

「なんでもいいから好きなように書け。どうかな?なんかまだ弱いな。」

「そう?」

「将来、どうしたいの?学校行くとか。」

「やっとのことで、こないだ高校卒業したのに。」

「そうか。やりたい仕事とか。」

「やりたいことがない。あ、そういえば俺こないだ、アートに興味があるのに気付いた。カウンセラーの人と話してて。」

「その誓也とかいう人。アートっぽい写真撮る人だから、会ったら相談してみろ。君自身を被写体になにかアーティスティックなことができるかも。」

「なんて書けばいいの?」

「アートの勉強をする。」

「そんなこと書いていいの?」

「学校に行かなくてもそういう勉強はできる。興味があるんだろ?」

「うん。」

「俺、読者モデルしてた頃知り合ったヤツが、今モデルエージェンシーで働いてて。紹介してやる。いい仕事してる会社だから。」

「そんな会社に入って、俺、どうすんの?」

「なんでもいいから仕事をしろ。社会との接点を作るんだ。最後の1個。」

「睡眠薬。」

「じゃなくて。」

「入水自殺。」

「じゃなくて。」

「セックスのオーバードース。」

「ちょっとは、ましじゃない?意味ないけど。」


その後3週間たっぷり監禁されて、やっと釈放された。野放しになるのは久し振り。病院の噴水の天使にウインクして、駅まで歩く。自由な気分。もうあの変な茶色の病院服は着なくていいし、病院食も食べなくていい。駅に着く。切符を買う。なにをしても新鮮に感じる。カウンセラーに俺の書いたリストを持たされた。やりたいこと10個。彼の所へはこれからも通うから、ちゃんと実行して、報告をしないといけない。大きな駅で降りて、くず餅を買って、また電車に乗り込む。これでひとつクリア。電車のなかで弟にラインして、買い物に行く日を決める。またひとつクリア。誓也が帰って来た。俺に会いたいって言ってる。メールの返事を送る。またひとつ。近所のスーパーで、涼雅が書いてくれた買い物リストにある物を買う。全部じゃないけど、半分くらいは買えた。人ゴミにいてもあんまり不安は感じない。それより解放感の方がずっと大きい。グレーとグリーンのヘアカラーを買って、家に帰って、髪を染めて、くず餅を食べて。忙しい、忙しい。新しい色の髪を写真に撮って涼雅に送った。可愛いと言ってくれた。夜仕事が終わってから、車で迎えに来てくれる。そして今夜はお泊り。わー、緊張する。あのキスを思い出す。たった3秒間のワイルドなキス。


涼雅の車はカッコいいグレーのセダン。

「ちゃんとスーパーに食べ物買いに行ったよ。」

彼は俺の頭を撫でてくれる。俺の新しい色の髪。

「それ食べたのか?」

「食べてない。」

「じゃ、なんにもならない。」

「くず餅食べたし。」

「ま、いっか。」

涼雅の家に着いた。さすが優秀な製薬会社の営業。父が家賃を払ってる俺のマンションも、一応セキュリティ付きで高級だけど、涼雅の家はもっと広くて、高そうな家具とかが色々ある。キョロキョロ見て回る。廊下で捕まって、後ろからハグされて、俺は思わずその手から逃げる。

「なに、逃げてんの?」

「だって、なんか緊張するし。」

「テレビでも観るか?」

俺はテレビ持ってないし、観ないし。集中力がないから、どうしても画面から目をそらす。

「あ、薬持って来るの忘れた!」

「今、なに飲んでんの?」

俺は薬の名前を言う。精神安定剤が2種類と、抗精神病薬と、新しい、あんまり依存性のない抗不安剤。

「それないな。明日の朝飲めば大丈夫。」

まあ、薬屋さんが言うんなら大丈夫か、って思って、あることに気付く。テレビの前を立って、またマンションの部屋をウロウロ見て回る。

「なにを捜してる?」

暗い廊下から、少し厳しい声がする。

「分からない。」

唇が震える。俺はすごく不安になる。なにを捜してる?ここにはなにかがある。俺の欲しい物。この人は誰?俺になにをしようとしてるの?

「君のオーバードース。ここにはなにも置いてないから。」

「でもさっき、それは置いてないって。」

「だから置いてないって。」

この人はウソをついている。俺の邪魔をしようとしている。

「もしここに薬があったとして、君はどうするつもりなの?」

「もう帰って来られない、もう苦しまない所に行く。」

俺は彼の机の引き出しや、クローゼットのドアを開ける。彼はそれをしばらく黙って見て、そして、

「玲真!」

って、叫ぶ。俺はさらに激しく捜し回る。キッチン。バスルーム。玄関。書斎。どこにもない。不安感が増す。寝室の隅で見覚えのある大きなバッグを見付ける。俺は中をかき回す。書類がたくさん入ってる。でも他にはなにもない。

「どこにあるの?どこにあるの?」

俺はそう繰り返して、とうとうその場に座り込んで動けなくなる。自分がなにをしていたのか分からなくなる。混乱。不安。恐怖。誰かが俺の髪に触れる。そして俺の頬に手を置く。俺の大好きな、大きくて温かい手。

「玲真。大丈夫?」

「うん。ゴメンなさい。」

「君は病気なんだから。」

「うん。」

「一緒に治していこうな。」

優しく言われて、俺はその瞬間から泣き始めて、俺は普段泣いたりしないけど、1度泣き始めると止まらない。ベッドで抱き締められて、でも俺があんまり泣いてるから、腕を解かれて、でもそうされると俺がしがみついて。結局そんな風に、一晩中抱き合って寝た。


誓也から電話があった。

「玲真。撮影の日が決まったから・・・」

そのままスタッフの人と話し始める。相変わらず忙しい男。

「・・・これはいい、それもいいけど・・・これだけ撮り直そう・・・玲真、これから住所送るから。」

こっちの都合は聞かない。そうですか。分かりました。当日早朝、俺は涼雅の運転でそのスタジオに行く。たくさんの部屋に分かれてる大きな建物。本格的な撮影スタジオで、俺のヌードのヤツなんて、俺のベッドの上で勝手に撮られたから、こんなのは初めて。だから涼雅の方が落ち付いてる。

「ふーん、あれが北山誓也。」

涼雅は最初からなんとなくライバル視してる。スタッフがゾロゾロいるけど、俺には関係ない人達かと思ってて、実は俺の撮影のヘアメイクとかスタイリストで、やや青くなる。

「玲真、今日のクライアントさん。」

紹介されたのは有名ブランドのお偉いさん達。言われるままに椅子に座って、メイクされる。まな板の鯉。誓也が来て、

「少しこのやつれた感じ残して。特に目の周り。」

誓也って、俺のそういうとこ好きなんだよな。ヘアメイクは、チャラい男で、俺に色目を使う。

「君、ほんとに新人なの?エージェンシーはどこ?」

俺がボーっとしていると、涼雅がソイツと話し始めて、俺の知らない会社の名前を伝える。スタイリストが見せてくれたのは冬物で、タートルネックのセーターまであって、首を絞められるみたいで、パニックを起こしそうだったから、それは止めてもらって、意外と俺の意見が通って、最初のは、普通のシャツにスーツ。クライアントと誓也が俺のヘアスタイルで揉めている。

「とりあえず撮ってみましょう。」

って誓也が言って、テストショットして、そしたらクライアントが、

「彼、イケメン過ぎて、これじゃあマネキンみたいで面白くない。」

俺は涼雅の顔を見る。彼は俺にウインクしてくれる。フォトグラファーとヘアメイクとスタイリストが話し合った結果。髪は縦ロール。胸開けて犬の首輪みたいなジュエリーを巻かれて。フルメイクでマスカラまで塗られる。ピンクのリップグロス。俺は涼雅に投げキッスをする。誓也が、

「玲真。ベッドで男を誘う時の顔。」

そんなこと突然言われても。涼雅が来て助けてくれる。こういう顔してただろ?ってやって見せてくれる。それが可笑しくて、ゲラゲラ笑う。誓也が来てその顔を撮る。クライアントにその写真を見せて、なんとオーケーが出る。服は5パターンもあって、ヘアもメイクも少しずつ変えて、そんな感じのふざけたスマイルで、やや拗ねた感じとか、とぼけた感じとか、色々やって、モデル経験のある涼雅が助けてくれて、なんとか仕事が終わった。重労働。興味深かったのが、誓也の前で涼雅がやたら彼氏ですアピールをしてて、肩を抱いてみたり、やたら接近、ボディータッチ。可愛いな、って思ったから、全部終わったあとで、熱いキスをしてあげた。誓也やスタッフはみんなじっと俺達の方を見てた。なんだかんだで楽しかった。


帰りの車の中で、

「玲真、あのリストにある10個の中で、まだやってないのなんだ?」

「弟とはこないだ買い物に行った。今着てるのもその時買った。やってないのは、渋いバーに行く。」

「渋いバーね。俺、居酒屋でみんなで乾杯、タイプだから。」

へー、なんか意外。涼雅とか私服もトレンディだし、渋いバーとか、いっぱい知ってそう。

「玲真に会わせたい人がいるんだけど、ソイツだったら渋いバーきっと知ってるぞ。」

「誰それ?」

「博輝。こないだ言ってたモデルエージェンント。」

「あ、でも俺、着替えないと。20才になって渋いバーに行く時は、バリっとスーツ、って決めてたから。」

「そんなに大事なことなのか?」

「何年も前から、夢だったから。」

「そんなスーツ持ってんの?」

「祖父ちゃんの葬式の時のやつ。」

「喪服か?」

「でも別に普通のスーツだよ。黒の。」

「じゃあ君んちに寄って行こう。」

俺がシャワーを浴びたりなんだりしてるうちに、涼雅はその博輝さんに連絡を取って、幸いあっちの都合もよくて、俺達は現地で待ち合わせることになった。

「あれ、髪洗っちゃったの?」

「当たり前でしょう?縦ロールなんて、少女マンガじゃないんだから。なに考えてんのあの人達?」

「でも撮影は上手くいったじゃない。博輝にこの写真見せられるな。」

俺は葬式に来たスーツを出す。クリーニングに出したからそんなわけないのに、なんとなくお線香の匂いがする。これに白いシャツを着て、ネクタイは渋い色の幾何学模様。

「お祖父さんっていつ亡くなったの?」

「去年。」

「へえ、それは大変だったね。」

「あの祖父さんが俺に、全部精神病をくれた。その割には長生きしたんだよ。」

「そういうもんなんだね。」

「どう、俺?渋い?」

「いい感じ。」

涼雅は俺のまだ少し濡れた髪を整えてくれる。この人はどうしていつも俺の髪に触りたがるんだろう?車は新橋方面へ向かう。

「博輝は仕事できるしいいヤツだけど、なんか難しいところもあって、あんまり病気の話しとか、しない方がいいかもしれない。」

「でも言った方がよくない?仕事するんだったら。」

「まあ、そうだけど。今日は止めとけ。」

車を停めて少し歩いた。日が沈んで少し涼しくなって、でもこのスーツじゃ、やっぱり暑くて、でも何年も前に決めたことだから。週末の新橋と銀座の中間辺り。夜の蝶と呼ばれる女性がチラホラ。大柄な本格的な美女とすれ違う。洗練されたデザインのドレス。俺はなんとなく振り返る。涼雅はそれが可笑しいと言って笑う。俺だって美しいものは見ていたい。女だろうが。まだブティックやデパートの営業時間で、俺はメンズのショーウインドーに気になる物を見付けて、入って行きそうになって、涼雅に引っ張り出される。

「もう時間ないぞ。」

渋いバー?ほんとに俺の思うような所かな?ワクワクする。またひとつ俺のリストから実行済みのものが増える。俺のカウンセラーはまた10個やりたいことを書くという宿題を出した。前のヤツだってまだ全部終わってないのに。未来のことを考えるのは得意じゃない。そして会いに行くたびに、ケータイで絵を見せて、これは買うべきかどうか俺に聞く。観てダメなヤツはダメだって言うけど、実物を観ないと分からないのも多い。なんで俺に聞くのか理由が分からない。ひとつだけ、俺がいいって言ったのがあって、それは水彩で、薄いピンクにほんの一滴オレンジ色っぽい琥珀色が混じった色で、やっぱりそれも抽象で、俺のカウンセラー、やっぱり抽象が好きなんだな。抽象のほとんどは色で決まってしまう。そのピンクの水彩はまだ美大生の女性が描いた物で、たまたまカフェに飾ってあって気に入って俺に相談してから決めようと思ったんだって。だからなんで俺なの?精神病患者の直観を信じてるとか?まさかね?分からない。


そのバーはまずまず俺の及第点。店は小さ目で、カウンターだけ。俺が一番気に入ったのは、新しがってるわけでも、古く装ってるわけでもないとこ。それから、下手に酒のボトルを全面に出して飾り立てたりせずに、ライトを落としているところ。かかってる曲はなんか暗めのクラシック。ほんとのクラシックより、もっと新しい感じがする。でも現代音楽と言えるほど新しくもない。客は意外と、普通のどこにでもいるような若いカップルとか、ビジネスマン。俺はいつもウォッカを飲んでるけど、せっかくこういう所に来てるんだから、なにか変わった物をオーダーしようと思った。なんか怖そうなバーテンダーがいて、でも俺はこれは一世一代の大事な場面だから、20才の特別なカクテルで、ウォッカじゃないのがベースで甘くない物、って言って作ってもらった。涼雅はロックグラスでなんだか知らない物を飲んでいる。彼が乾杯してくれて、俺はなにかを成し遂げた気分になる。カクテルは思いっきりドライで、なにが入ってるのか見当つかないけど、敢えて聞かなかった。色は全くついてない。飾りもなにもない。その博輝さんという人は、15分くらい遅れて店に入って来た。涼雅は難しいところがある人だ、って言ってたな。俺の印象では、大人しそうな人っていう感じ。

「悪い、遅れて。」

「お前が遅れるの珍しいな。」

「うん。実はちょっと具合が悪くて、退院して仕事復帰したばかり。」

「へえ、それも珍しいな。どうしたの?」

「ウツ病になって。」

「へえ、もういいの?」

「大丈夫。半年入院してた。」

「え、そんなに?」

「涼雅はそういうの専門だもんな。」

「なにもできなくて悪かった。」

「俺も誰にも言ってないし。」

彼はアルコールじゃなくて、ジンジャーエールを注文する。俺なんて精神科の薬飲んでるからって、酒を止めたことないし、ウォッカに薬溶かして飲んでるし。俺はその人の顔を盗み見る。そんな華やかな仕事してるなんて不思議。こういう真面目そうな人の方が逆にいいのかな?半年もウツ病で?よっぽど重病だったんだろう。俺だって半年ずっとってことはない。出たり入ったりだけど。涼雅が病気の話しはするな、って言ってたから俺は黙ってふたりの会話を聞いている。俺はどんな風に振る舞ったらいいのか分からない。俺は自分の容姿には自信あるけど、彼みたいな仕事してたら、もっとイケメンなんてたくさん見てるだろうし。ハーフとか外人とか。おまけにモデルなんて俺が自分でなりたいわけじゃない。涼雅のアイディアで、俺が社会との接点を持った方がいいからとかそんな理由。親の金で生きてきたけど。まあ、生きていたかったわけでもないけど。しばらくして涼雅がやっと俺のことを彼に紹介してくれる。

「白川玲真。今日初めてモデルの仕事して。」

涼雅が今日の撮影をケータイで見せる。博輝さんが、

「いい表情出てますね。」

健康的過ぎて俺じゃないみたい。今朝スタジオに行くまでは、どうせいつかのヌードみたいな不謹慎なヤツだと思ってたから。それ考えると、意外な展開。今夜、俺の大事なイベントである、この渋いバーでこの人に会うのも意外な展開。

「フォトグラファーは誰?」

俺が、

「北山誓也です。」

「ああ、だから。君のこと見たことあると思った。」

「もしかしてあの写真雑誌?」

「あっちの方が北山さんらしい。でもあれは商業写真じゃないから。」

「恥ずかしい、あんな写真。」

「髪の色が違うから分からなかった。実はモデルについて雑誌に問い合わせしてたんだけど。そしたら今入院してる、って言われて。」

涼雅が、

「偶然だな。玲真に興味持ってくれたとは。」

「新人はいつも探してる。」

入院とかそういう話しは涼雅にまかせようと思って、俺は黙った。

「退院されたんですよね?」

「仕事させた方がいいと思って。」

「社会復帰?」

「社会経験がないもんで。」

20才のお祝いなんでしょ?渋いバーに行きたいなんて。俺、渋いバーだったらたくさん知ってる。」

俺のなにが入ってるのか分からないカクテルが、効いてきた。かなりアルコール度が高そう。涼雅に会話をまかせようと思ったんだけど。

「え、そしたらまた連れてってください。」

「君はどうして入院してたの?」

俺は涼雅の方を見る。俺に軽くうなずく。じゃあ、言ってもいいんだな、って思ったから、

「俺のは自分が悪いんです。抗不安剤の依存症で。」

「もうよくなったんでしょう?」

「涼雅が肌に悪いって。」

「確かに。肌、綺麗だもんね。大事な要素。」

「俺、仕事なんてできるんですか?」

「今朝、してきたんでしょう?」

「でもあんなの健康的過ぎて、俺じゃない。」

「色んな仕事があるから。あの写真雑誌の方は?」

「あれは誓也が勝手に撮ったんで。」

「親しいの?」

「ええ、まあ。」

「あの写真のことはどう思うの?」

「あれは入院するちょっと前だから、1番不健康なところ。でも今日撮ったのより自分らしい。」

「今、何枚か撮らせてもらっていいかな?」

博輝さんは店の人に断ってから、俺の写真を撮る。俺はどんなポーズでどんな顔をしていいのか分からなくて、でもすぐに俺のほんとの姿でいいんだ、って思って、カクテルグラスを持ち上げて、最後の1滴をでっかく開けた口に垂らしているところ。ネクタイ取ってシャツの前開けて、太宰治がやってたみたいに、椅子に片足立てて座る。バーの外のネオンサインの下でカッコいい横顔と正面。彼が全身も、って言うから、全く無防備で力を抜いて、真っ直ぐ立ったところを撮ってもらった。そのあと少し博輝さんと話しをした。涼雅が読者モデルやってる時、彼がその雑誌の編集者だった。

「涼雅が俺のターニングポイントだった。俺は美しい人間が好きなんだな、て気が付いて。あの頃の涼雅の爽やかな色気、忘れられない。」

涼雅が、

「今だって爽やかだぞ。」

博輝さんは、

「そうだね。」

って、初めて白い歯を見せて笑う。笑うと、人が違ったみたいに見える。暗そうに、大人しそうに見えるのは病み上がりの今だけで、本当はこんな風に明るい人なのかな、って思う。着てる服はカジュアルに見えて、本当はいい素材のいい物を着ていて、涼雅もお洒落だけど、この人のはもっとずっとさり気なくて、よく見ないと分からないシックなお洒落。彼が俺の病気について質問する。俺はそれが個人的な興味なのか、仕事に必要な情報なのか、判断に迷う。

「君はどうして抗不安剤なんか飲んでたの?」

「不安障害があって。」

「どういう不安なの?」

その聞き方には、やっぱり個人的な興味なのかな、って思わせる調子があった。

「この世に居たたまれない、っていう焦燥感。だから自傷行為や自殺未遂をしてた。」

「俺も時々、この世に居場所がないっていう不安に陥る。ドクターに聞いてみようかな?抗不安剤。」

「あれはね、効き過ぎるから。今までいらなかったんだったら、飲まない方がいいですよ。」

「そんなに効くの?」

「一瞬で効きますよ。あれっ、俺、今なにしてたんだろう?って、そんな感じ。だから依存症になるんです。」

「でも不安感でウツになるのも辛いな。」

「もう大丈夫なんですよね?」

「急性だったから、電気けいれん療法を何度も受けた。」

「俺、あれだけはやったことないな。どんな感じですか?」

「全然覚えてない。」

「重症ですよ、それ。大事にしてください。俺、精神病は大分詳しいから、まあ、涼雅も詳しいけど、なんでも聞いてください。」

「それじゃあ、人間はなんのために、生きていなければならないんだろう?」

博輝さんは、ジンジャーエールの入ったカットグラスをライトに透かして見ていて、だから俺はその質問を俺に言ったのか、それともグラスに言ったのかよく分からない。

「それだけはね、俺に聞いても分からない。でも俺にはカウンセラーがいて、ほとんど毎週、やりたいことを10個書かせて、それを実行させる。」

10個?そんなに書けるの?」

「書けません。全然。いつも涼雅に聞く。今夜20才のお祝いにここに来たのも、そのひとつですよ。」

「未来のことなんて、考えられない。」

「俺も同じですよ。じゃあね、博輝さんと俺でなにかしましょうよ。俺のリストに入れるから。」

「じゃあもう少し、プロフィールの写真を撮ろう。俺は結構いいフォトグラファーのつもりだから。」

彼と近々、できれば天気のいい日、広い公園で撮ろう、ということになった。


帰りの車の中で、涼雅は、

「博輝はあんなんじゃなかった。」

「そうなの?1回笑った時、明るくて全然違う人に見えた。」

「そう、あの感じだった。病気は怖いな。人を変える。」

涼雅の洗い立ての大きなシーツに裸で横になって、なぜか俺は博輝さんのことを考える。涼雅も裸で俺の横に来て、いつもみたいに情熱的な恋人になって、俺のことを力強く抱いてくれる。悪いな、って思いながら、博輝さんのあの笑顔を思い浮かべる。誰か彼を幸せにしてくれる人が、側にいるんだろうか?涼雅が突然、俺の乳首に触る。俺は、ビックリして、あ、って声を出してしまう。

「なにか他のことを考えてる。」

「そんなことないよ。」

小さな声で否定する。

「だれか他のヤツのことを考えてる。」

俺は涼雅のストレートな視線を避ける。考えてはいけないのに考えてしまう。博輝さんの気持ちが分かる。人間はなんのために、生きていなければならないんだろう?

「君のこと、博輝に紹介したの間違いだったか?でもそんなこと予測不可能だもんな。」

「なんのこと?」

心の中を見透かされて、なんだか自分の非力に悲しくなる。涼雅は逃げられないように俺の頭を押さえて、また俺の目をストレートに見据える。俺はそれを見ていられなくて、再度それを避ける。涼雅は俺の敏感な部分を順番に責めていって、俺が喘いで、

「身体だけは、まだ俺の物なんだな。」

って、呟いた。


博輝さんが連れて行ってくれたのは郊外の、母親や小さな子供達が多い公園。お天気は時々雲が横切る程度の晴天。広くて、噴水がある。当然、俺は病院の噴水のことを思い出す。天使のいる。俺は彼とふたりだと嬉しいけどナーバスで、彼はすごくいいプロ用のカメラを持ってて、これはエージェンシーのプロフィール用だからって言われて、笑おうとして頑張って、もし上手くいっても、きっとそれは俺には見えない。ウソの笑いを浮かべた自分自身を観ていると、もっとナーバスになってくる。

「考え過ぎなくてもいいよ。」

「はい。でも・・・」

「考えちゃうんだろう?なに考えてんの?」

「俺はもう存在してないはずなのに、って。」

幼稚園くらいの子供達が、滑り台とか、ブランコとかで遊んでいる。俺もあんな風に遊んで楽しいと思ったことがあったのだろうか?子供達の笑い声が響く。青空。噴水の音。ここは天国みたい。病院の天使みたいなのを、ここの噴水にも連れて来るべきだと思う。

「俺、涼雅のバッグから抗不安剤を盗んで、全部飲んで2日間死んでた。でも起きてしまった。」

「よかったじゃない。」

「何回もやってるのに、どうしても死ねない。その時一緒に大量の睡眠薬を盗んで、病院のベッドの下に隠して、でも涼雅に見付かった。絶対に死ねる量。誓也と一緒にいる時にやったこともある。」

「俺もどっちかというと死にたい方だけど、そんな勇気ないな。」

「じゃあ、今度やる時教えますから、一緒に死にましょう。」

「誘ってくれるのは嬉しいけど、もしそんなに死ぬつもりがあるなら、こんな写真撮っても意味ないよ。」

「でもこれはね、涼雅がよかれと思って考えたことだから、しばらく仕事をしたいと思います。」

「こうなったら、君が自分らしいと思う表情をしてみて。色んなクライアントがいるから、中には気に入る人もいると思うし。」

俺は噴水の中に入って行く。それは病院のとは違って、小さな子供が水遊びできるような噴水で、だから俺が一番深い所を選んで横たわっても、身体半分しか沈まない。前にやったみたいに横たわって胸の上で手を組んで、水の音を聞きながら目をつぶる。死んでいる俺。死んで、川に流される。オフィーリアのように。目を開けたら、博輝さんが俺の顔を上から撮っている。俺が起き上がろうとしたら、

「ちょっと待って。もう1回、目を開けてるところ。」

何枚か撮ったあと、俺は、

「どうです?死体っぽくなってたでしょう?」

って、彼のカメラをのぞく。なんだかそうでもない。死人になるのって難しいんだな。

「俺、ずっと死に憧れてたから、色々調べたんですけど。」

俺がまだ濡れた髪と、濡れた服のまま話し出すのを、博輝さんが写真に撮っている。

「ビクトリア朝のヨーロッパには、死んだ人の写真を撮る習慣があって、そういう写真がたくさん残ってるんです。あと、アウシュビッツの死体の山とか。俺、そういうの観て大分研究したんだけど。やっぱり難しいな。もっと死体っぽくならないかな?」

彼は撮った写真を観て、

「全然死人には見えないよ。」

「もう少し、硬直した感じがいるのかな?それとも蝋人形みたいな感じ?」

俺は顔を硬直させて、目は半分開けて、口はほんの少しだけ開けて、死んだオフィーリアが川に浮いてる有名な絵みたいな、あんな顔をしてみた。博輝さんは何枚か撮って、

「これで少し色を抜けば、大分死人っぽいよ。でもどんな人が死人のモデルを使うの?」

「葬儀屋さん?」

俺がそう言うと、彼は爆笑して、

「家のクライアントに葬儀屋さんはいないな。」

「ほらね、博輝さん。笑った方がずっといい。」

「だったら、君も笑ってよ。」

そう言いながら、俺にカメラを向ける。

「北山誓也の時は笑ってたじゃない。あのヌードじゃない方のヤツ。」

「ああ、あの時は涼雅が側で笑わせてくれたから。」

「どうやって?」

「あの時はね、誓也が、ベッドで男を誘う時の顔しろって。俺が咄嗟にできなくて、そしたら涼雅がこんな顔だったとか、やってくれた。それで笑ってた。」

「男を誘う顔?」

「俺ね、上手いんだって。定評がある。」

「へー、じゃあそれやってみよう。」

「もう少し死体も追及したかったんですけど。まあ、やってもいいですけど、それで博輝さん、俺のこと好きになっても責任取りませんよ。」

俺は博輝さんに惹かれているから、誘うのは簡単。自由自在。


男を誘う顔、が合格して俺達の撮影は終わった。博輝さんはこないだよりもっと渋いバーに連れて行ってくれた。まず音楽が渋い。俺はジャズ好きじゃないし、だから全然知らないけど、これは悪くない。暗くて真剣なジャズ。店はこないだのより大きい。カウンターの他にテーブルが少しある。男同士で向き合って座ってる。カップルだと思う。珍しいな、こういう所で軽くキスしたりしてる。若い子達。多分俺くらい。博輝さんもその子達を見てる。俺がオーダーしたカクテルが来る。今日のは、甘くて見た目も可愛いマルガリータ。男を誘うカクテル。甘えてる感じ。

「博輝さんは、涼雅のことが好きだったんでしょう?」

「なんでそんなこと?」

「そういうの俺、分かる。今でも好きなの?」

彼はその質問には答えずに、

「君は涼雅と付き合ってるんでしょう?」

「そうなんだけど、よく分かんない。俺、ひとりの男と付き合ったことないし。誓也とヤってた時も他にいたし。」

「じゃあ、これって三角関係?」

「どういう意味?」

「俺は涼雅が好き。涼雅は君が好き。」

「じゃあ俺は?」

「それは知らない。」

彼はまたジンジャーエールを飲んでいる。真面目な男だな。俺、こんな人、本気で好きになったら、毎日怒られそう。俺は彼の顔を見る。

「今の、男を誘う顔?」

「そうでした?」

「意味深な眼差し。それに、ほら。」

「なに?」

「そうやってちょっと首をかしげるとこ。」

「今のはそういうんではないです。」

「じゃあどういうの?」

「あの、もし博輝さんみたいに真面目な人好きになったら、毎日怒られるな、って。」

彼は俺の好きな笑顔を見せて、

「なんで怒られるの?」

「だって俺、ウォッカに色んな薬溶かして飲んだり。」

「それ、ヤバいだろ?」

「ほらね。それに、製薬会社の営業から薬盗んで死にかけたり。」

「それもマズいな。」

「そうでしょう?だからダメでしょう?」

「なに?俺のこと好きになる予定でもあるの?」

クールなセリフ。俺は必殺技の、流し目と微笑みを送る。博輝さんは面白がってるみたいに、

「今のはほんとに男を誘う顔だろ?」

って、笑う。

「君、ほんとに上手いな。さっきの写真、さっそく家のウエブサイトに出すから。」

「仕事来たらどうしよう?」

「なにそれ?」

「俺、ついこないだまで高校生だったから、社会経験なしで。」

「じゃあ、みっちりトレーニングしてあげるから。」

「え、トレーニング?俺、運動苦手で。」

「そのトレーニングじゃなくて、ポーズの取り方とか。」

「あ、今思い付いた。お宅のモデルさん達、どんな人がいるのか見てみたい。」

彼がケータイで見せてくれて、へー、なるほど。今時はやっぱり外人多いな。それにハーフも多いな。

「女性もいらっしゃるんですね。」

「そう。ビジネス的な意味で。」

「俺なんてみんなに美形だって言われて育ってきたけど、プロと比べたら平凡ですよね。なんか、日本人丸出しで。」

「いや、君は魅力的です。ハーフの中に混じっても、見劣りしない。」

「そうだといいけど。やっぱりでも俺、仕事来たらどうしよう?俺、なんにも知らないですよ。」

「いいじゃない。連中をかき回してやれば。ヘアメイクとかスタイリストとか、仕事ほんとにできるヤツなんてほとんどいない。」

「そうなんですか?」

「誓也さんは必ず一流を使う。」

「あの、縦ロールが?」

「あれは、ハリウッドの1940年代頃のイメージ。」

「へー。単に少女マンガかと思った。」

博輝さんに笑われて、俺は拗ねて唇を突き出す。男はここで絶対キスしてくれるんだけど。俺は唇を指でなぞる。涼雅はそれはヤバい、って言ってた。それでも彼はキスしてくれない。

1943年の映画、『ジェーン・エア』に11才のエリザベス・テーラーが出てて、ほんとに可愛らしい。縦ロールで。」

「映画詳しいんですか?」

「俺は美しい人間に興味があるから。君は女性的な顔をしている。母親似なの?」

「俺、知らないんです。母のこと。」

「そうなの?ゴメンね。」

「いいんですけど、すごい美人だったって。2度目の母も美人で、そっくりだ、って言われる。そんなわけないのに。」

「両方、お父さんの好きなタイプだから。」

「あ、なるほど。」

「こんなこと言ったらどう思うか。」

「なんですか?」

「君のその目、日本人じゃないね。」

「え?俺、ダメ、そういう話し。ただでさえ自分の存在が確かじゃないのに。」

「ゴメンね。言わない方がよかった?」

俺は泣きそうな顔をして、ちょっとだけ唇を突き出す。その時は博輝さんはキスしてくれた。素早い、乾いたキス。向こうのテーブルにいる男性同士のカップルが、こっちを見ている。


なんだか混乱している。色んなことに。俺は今夜ひとりでいたくなくて、涼雅にラインする。行ってもいいか?って。博輝さんが涼雅の家まで送ってくれた。別れる時また、仕事が来ないといいな、って言って笑われた。

「博輝と一緒だったんだろ?」

「そう。」

涼雅はなんとなく機嫌が悪い。軽くキスされただけで、別になにもないし。

「博輝さんは昔から涼雅のことが好きらしいよ。」

「なんでそう言わないんだろう?」

「それは知らない。」

俺が上着を脱いだところで抱き締められた。彼の熱い胸を感じる。ボーっとしていたらいつものワイルドなキスをされて。さっき博輝さんの唇が触ったそのあとに。それでもまだ機嫌が悪い。

「涼雅はどうしたいの?博輝さんのこと?」

「君はどうしたいの?俺のことが好きじゃないの?」

「順序から言ったらあっちが先だし。」

「俺はアイツに特別な感情はない!」

俺は、父親がそうだからか、威圧的な男が嫌い。誓也もそうだった。俺は弱い人間じゃないと思うけど、感情的になりやすい。俺はまた上着を着て、玄関で靴を履く。

「玲真。言いたいことがあるならちゃんと言え!こんな風に出て行かれると、心配するだろ!」

そう言って俺の前に立ちふさがる。俺は努力したけど、やっぱり泣き声になって、言おうと思ったけど、なにも言えなくて、でもそれは俺が弱いからじゃなくて。涼雅の言い方が穏やかになって、

「君のことを誰にも盗られたくないだけなんだ。」

「俺は博輝さんが可哀相って思って。涼雅のこと好きなのに。」

「アイツはただの友達だから。」

涼雅は俺が泣き始めると止まらないのを知ってるから、一生懸命なだめようとする。俺も努力をする。でもこの展開だと絶対泣くよなって思ってたら、涼雅が、くず餅を出して来てくれる。俺の大好物の。それを食べながら気持ちがちょっと和らいで、それで泣かなくて済んで、彼はどうして今夜、俺がここに来るの知ってたんだろう?って考える。考えても分からないから聞いてみる。

「なんで俺がここに来るの知ってたの?」

「あ、くず餅?たまたま売ってたから、明日にでも届けようと思って。」

それを聞いて、堰を切ったように涙が流れ落ちる。俺みたいなバカの世話を焼いてくれるような男、他にいるわけないよな。博輝さんのことは、たまにドキってするくらいにしておいて、やっぱり俺はこの男と一緒にいよう。でもああいう威圧的なのは好きじゃない。これはもし奇跡的にこの涙が止まったら言うつもり。くず餅ですっかり懐柔された俺は、涼雅に手を引かれてベッドルームへ。涼雅はいつもより情熱的な恋人で、でも俺はまだ泣いていて、ほんとにエッチなことはしてなくて、ただティッシュを大量に消費して、

「博輝さんに言われたんだけど、俺の目って日本人じゃないって。」

「そんなに泣いてちゃ分かんないな。」

「俺、母親を知らないから。」

「病院に来てたっていう人は?」

「あれは2度目の。弟はその人の子。」

「そうなの。」

「だからそう言われて、不安になって。それでひとりでいたくないなって。」

「泣かしてゴメン。」

「俺って誰?」

「そんなの調べればすぐ分かるだろ?」

「本当?」

「そんなに昔の話しじゃないだろ?」

「うん。」

「俺が絶対調べてやる。心配すんな。」

涼雅は先に寝ちゃって、ティッシュの箱が空になって、しょうがないから泣き止んで、彼にくっついて寝た。朝起きたらしっかり襲われた。


博輝さんからはネガティブな光線が出ていて、それは俺のとほとんど同じで、だから彼が涼雅に惹かれるのも、俺がそうなのと同じ理由だと思う。博輝さんが働いてるオフィスの社長に会った。ファッション業界とかの人間って少ししか知らないけど、人当たりのいいタイプ。中年男性。いくつかどうでもいいような質問をされたけど、俺、もともとモデルやりたいとか、そうそう希望を持ってないんで、適当に言っておいた。目標とするモデルは?なんていきなり。なんでか知らないけど、俺、クラーク・ゲーブルとか言っちゃって。どっから出て来たのかさっぱり分からない。俺がどう頑張ってもクラーク・ゲーブルにはなれない。社長も博輝さんまで笑っていた。こないだ涼雅と一緒に古い映画を観ていたからだと思う。モノクロでドリス・デイと出てたヤツ。抗精神病薬を少し増やされたので、眠いから、こっちからは質問とか全然しないで、さっさと帰って来た。強迫観念の新しいヤツが出て来たから。新しくもないか。前にも同じのがあった。人々に憎まれているような気がする。そのことが1日中、毎日気になって仕方がない。これでもし俺に仕事が来て、それが公共の場にさらされて、そしたら俺の強迫観念はどうなるんだろうか?俺、ナルシシストだから、人々に観られて嬉しくなるかもしれない。それともその反対に、みんなに憎まれてるって思うかもしてない。こないだ誓也が撮った、縦ロールのヤツは、30代向けくらいのファッション雑誌と、そのブランドのカタログくらいにしか載らなかったから、あんまり知ってる人はいない。あれがもし、駅のポスターとかになってたら、気が気でないと思う。寝込む。最悪。俺はもし日本人じゃなかったら、なんなの?爬虫類?昆虫?到底、哺乳類とは思えない。もし哺乳類だとしても、きっと夜行性で、地下に穴を掘って住んでて、人間の目には絶対触れないような。それか、オーストラリアとかガラパゴスとかアマゾンとかで、たまたま進化から外れて生れてしまった、奇妙な動物。鳥みたいな獣みたいな。植物みたいな動物みたいな。鳥みたいな人間みたいな。それはいいな。天使ってこと?俺は天使になれるんなら、3回くらい死んでもいいな。でも噴水にいるヤツじゃなくて、もっと自由に飛べるのがいいと思う。3回死んだら、罪も許されるかな?


誰かが俺の手に触る。俺はビクっとして、その人の方を見る。俺は、博輝さんとホテルの最上階にあるバーに来ている。大して渋くはないけど、こういう所で飲みながら夜景を見たい、って言ったら連れて来てくれた。

「俺も考え事の長いタイプだけど、君のも長いね、なに考えてたの?」

「あれから、俺って日本人じゃなかったら、なに者なんだろうって考えてて、きっと爬虫類か、ガラパゴスにいる変な動物だろうなって。でも、最悪がそれで、最高が鳥みたいな人間みたいな者。」

「天使?」

「俺は天使になれるんなら、3回くらい死んで罪を償ってもいいな、って。」

「そういうことを考えてたんだ。俺が変なこと言ったから。」

「そうですよ。全く。でも涼雅が捜すの手伝ってくれるって。」

「なにを?」

「俺のほんとの母親。」

「そうなの。知らないの?全然?」

「はい。どうして会いに来てくれないんだろう?ってずっと思ってたけど、今思うと多分母親も俺みたいに不安障害とかで、会えないのかも知れない。会って怖がられたりしたらイヤだな。」

「向こうが気付かないように見たら?」

「話ししないと会った意味ないし。」

「そうだね。」

「去年祖父の葬式があって、それは父方の祖父で、でもその時、俺のほんとの母親の親族も来てて、その人は母の姉だったか伯母だったか、そんな人。俺には紹介もされなかった。でもきっと今の母に聞けば分かる。その人と話してたから。」

「会えるんなら、会ったらいいじゃない。」

「俺の目のどこが違うんですか?」

「俺もたくさんハーフの子見てるから、なんとなく。」

「鳥と人間のハーフだったらいいな。そしたら俺、もう地上には降りて来ない。」

「どこに行くの?」

「さあ。人工衛星の上にでも座って、抗不安剤でも舐めている。」

「それ、その抗不安剤についてドクターに聞いたんだけど、ダメだって。俺は依存症の体質だって。」

「それは残念。」

「前、アルコール依存症になって。」

そう言えば彼は今日もジンジャーエールを飲んでいる。

「俺が今飲んでる抗不安剤、新しいヤツで、依存症になる確率が低いのですよ。あんまり効かないんだけど。」

「効かないんじゃしょうがない。」

「あ、ほら!太陽が沈んで行く。もう少ししたらネオンが綺麗になりますね。ひとつ夢がかなったな。」

「よかった。」


俺は2度目の母に会うために、久し振りに実家に行った。都合のいいことに父は忙しくて、帰って来なかった。母に、俺の本当の母親の親族の連絡先を聞くことができた。その人は姉、ということだった。俺の伯母さん。その人の名前が、笹山はるかで、俺のほんとの母親の名前が、ゆりかだそう。どうして葬式の時、俺になにも言ってくれなかったんだろう?葬式に来るくらいだったら、俺のことだって少しは関心持ってくれてもいいのに。弟にも会った。彼はしっかり受験勉強をして、大学へ行くつもりらしい。勉強がさっぱりできなかった兄とは大違い。俺は弟にこないだ撮った、メンズブランドの写真を見せた。すごく喜んでくれた。これからどうするかが問題。その姉、という人に連絡してどうするの?なに聞くの?涼雅は、

「別に普通に言えばいいだろ?」

「考えたんだけど、こんなに長い間俺に会いに来ない、ということは、やっぱり俺とかみたいに頭おかしいタイプの人なんじゃないかな?」

「そうかも知れないけど、なにか事情があるのかも。」

「でも頭おかしかったのは、俺の死んだお祖父さんなんだけど。」

「俺、聞いたことあるけど、そういう因子のある者同士は惹き合うんだって。大学で習ったんだけど、例えば双極性障害の人が、家族に双極性障害を持つ人と結婚する例がよくあるんだって。」

「それなのかな?母が精神病で、その因子のある父と結婚した。」

「そうかも知れないし、そうじゃないかも知れない。」


その日は週末で、俺はずっと涼雅の所にいて、なに言おうか考えているばかりで、伯母にはどうしても電話ができない。普通に言えばいいって涼雅は言うけど。普通ってなに?自分は貴女の妹の息子ですけど、できたら母親に会わせてもらえませんか?できたら、とか言うこともないよな。当然の権利だよな。20年も俺のことほっといて。お父さん、1回酔ってる時に、俺が母親にそっくりだから見たくない、って言われた。傷付いた。俺が中学生の頃。俺の不安障害が始まったのもそのくらいなんだよな。母にすてられて苦労したんだから。会わせてもらう権利はある。文句を言う権利もある。でも涼雅が言うように、あっちにも事情があったのかも。なんだか考えているうちに暗くなってきた。そのまま涼雅のベッドに潜り込んだ。

「まだ電話してないのか?」

「うん。」

「俺がしてやろうか?」

「でも聞きたいこともあるし。」

「会ってから聞けばいいじゃない。」

「会うの?」

「会いたいんじゃないのか?」

「俺の伯母さん?それは考えてなかった。電話で聞くだけだと思った。」

会ってくれるのかな?また考えてるうちに、気持ちが暗くなる。涼雅がキスしてくれても、やっぱり気分はよくならない。涼雅の心臓に耳を当てる。この人は生きてるんだな。俺には存在感がない。そのひとつの原因は、生みの母を知らないから。眠れなくて、俺はゴソゴソ起き出してキッチンで検索を始める。笹山ゆりか。全く期待してなかったのに、その名前がたくさん出て来る。俺がビックリして、でかい声を出して、涼雅まで起きて来る。

「どうしたの?」

「この人かな?」

「え、どれどれ?笹山ゆりか、タンゴダンサー?」

「同姓同名かも。アルゼンチン人だって書いてある。」

「なかなか会いに来れないはずだな。君に似てるよ。ダンスの化粧、濃くてよく分かんないけど。」

「タンゴの世界チャンピオン?」

「すごいな。有名人。」

「俺なんて全然ダンスとか運動神経もないし。」

「でも玲真、アートの素養があるし、自分の見せ方も知ってる。」

「自分の見せ方?」

「男を誘う時の。」

「そういうこと?」

「それがモデルの時も役立つ。ほらそうやって唇触るとこ。」

「今のは無意識じゃなくて、ワザとやった。」

涼雅はかなりセクシーなキスをしてくれて、結局俺達ベッドに戻って、彼は俺が色々ゴチャゴチャ考えてんのも忘れるくらいワイルドに愛してくれた。


次の日の朝、俺はもう1回タンゴについて検索していて、笹山はるかタンゴ教室というのを見付けた。

「伯母さんは日本で先生してるんだ。」

「ここに体験入学って書いてあるぞ。それ行ってみよう。」

「俺、女の匂いがダメ。」

「じゃあ、俺と踊ろう。」

「なに言ってんの?」

「玲真が寝てる間に勉強した。タンゴって、男同士でも踊るらしいぞ。130年前にタンゴが生れた頃はそうだったらしい。それに娼婦と踊ったのが起源とも言われてる。だから退廃的なんだ。音楽とか。」

「でも伯母さん俺のこと覚えてるんじゃないかな?お葬式に来てたし。」

「行ってみようよ。面白そう。タンゴって相当エロい踊りだぞ。身体をベッタリくっつけて。セックスに直結しそう。」

俺は母の踊りをPCで観た。このパートナーの人が今の旦那さんなのかな?ラテン系っぽい、男前。ほんとにタンゴってエロい。女の足が男の足に巻きつく。頬と頬が重なり合う。女の太ももが男の股の間に入り込む。

「行ってみよう。明日。」

「明日?」

「毎週日曜日が体験レッスンだから。俺、申し込んでおくから。」

俺は母の映像を観てて、顔がアップになった所で止めてみた。似てるかな?彼女はあんまり日本人に見えない。白人の観客と見比べれば、多少アジア人っぽい。そのビデオはドイツで行われた選手権のもの。背は高い。パートナーの男性とほとんど同じくらい。ちょっとだけインタビューが入る。スペイン語。母は日本語が話せるんだろうか?父と結婚したんだから当然か。母は父や俺より、タンゴを選んだのだろうか?

「玲真、なに考えてんの?」

「俺の母親はタンゴのために俺や父をすてたんだな、って。」

「まあ、その価値はあったんじゃないの?世界チャンピョンだから。」

「そういうもんなの?」

「芸術のために。」


日曜日、俺は涼雅に背中を押される形で、そのタンゴ教室に行った。そこは背の高いビルの中にあって、隣にバレエ教室があって、チラって見たら小さい子がたくさんいて可愛い。タンゴの方を見ると意外と男女半々くらい。女性が多いような気がしてた。俺は緊張して涼雅の側を離れない。女性たちが俺達の方をジロジロ見ている。俺は女とは踊れないから、って念のためにもう1度涼雅の耳に囁く。彼は俺の手をしっかり握ってくれる。それをまた女性達が見てる。初めての時は経験者と組まされるみたいで、でも俺は女はイヤだったから、涼雅から離れないでいたら、奥から伯母さんが出て来た。それから、そのパートナーの男性が出て来て、俺を見て笑って、なんと俺の手を取って、デモンストレーションを始める。その人は日本人で、タンゴの基礎の基礎を教えてくれる。その先生が男役で、俺のことをグって押したりみたり、グイっと引いてみたり相当強引。タンゴってこういうものなんだ。涼雅の方を見たら、1番若くて綺麗な女性と踊っている。なんか嬉しそう。営業職だから、あの男。誰にでもいい顔して。まあいいか。伯母は俺のことは気が付かないみたい。あの時は髪が赤かったし、喪服だったし。大きなお葬式で人がいっぱいだったから。俺だって伯母のことは覚えてない。休憩になって、俺はまた涼雅の後ろに隠れる。

「玲真、どうすんの?お母さんのこと聞くの?」

「終わってから。」

休憩の後は、涼雅が一緒に踊ってくれる。難しいから大したことはできないんだけど。なんだか嬉しい。周りの視線を感じる。当然。若いイケメン同士のダンスだからね。体験レッスンが終わって、涼雅が、

「タンゴ習おうよ。」

「冗談。」

時々妄想が起きて、周りの人達が怖くなる。そんな時どうすればいいの?いっつも涼雅がパートナーだったらいいけど。でもタンゴは俺には難しいからダメ。涼雅が俺の肩を叩いて、

「ほら、今がチャンスだよ。伯母さんと喋ってる人達、そろそろ帰るよ。」

俺はまた彼の影に隠れる。その喋ってた人達が俺の横を通り過ぎて、部屋を出て行く。涼雅は伯母さんの方へ歩いて行って、俺もそのまま隠れながら移動する。涼雅はなんだかんだ、得意の営業トークで色んなことを褒めて、いい教室だの、体験レッスンは盛況だの、そういうことを淀みなく喋って、いきなり、

「白川玲真。ご存知ですよね?」

伯母さんは一瞬黙って、涼雅の後ろに回って、

「玲真ちゃん?」

意外にも、ちゃん付けで呼ばれて、どんな顔していいのか分からなかったから、きっと悪戯を見付かった子供みたいな顔してた。


俺達3人は、同じビルの1階にあるカフェに入った。

「私達はアルゼンチンで生まれて、子供の頃日本に来て。」

伯母さんは考えながらゆっくり話し始める。

「ふたり共、子供の時聴いたタンゴがどうしても耳から離れなくて、私は日本で勉強したけど、ゆりかはどうしても本場で習いたいって。玲真ちゃんが生れてすぐ。ブエノスアイレスに。」

俺が黙ってたら、涼雅が、

「結婚生活が上手くいってなかったとか?」

「ゆりかはまだ19だった。自分の夢に1歩踏み出したところで、妊娠、そして結婚。」

伯母さんは俺の方を見て、

「ゴメンなさいね、玲真ちゃん。ゆりかにもどうすることもできなくて。」

涼雅が、

「ちょっと思ったんですけど、妹さん、なにかメンタルな問題を抱えてらっしゃったとか?」

「どうして?」

「玲真もそれでずっと大変で。」

「ゆりかは今で言う、双極性障害で。父親がその時のタンゴのパートナーで。」

俺と涼雅が、大きな声で一緒に、

「ええっ!」

って叫ぶ。伯母さんが、

「知らなかったの?」

彼女は俺のショックがおさまるまで待ってくれて、

「そのパートナーが責任取れなくて、雲隠れ。貴方のお父様はずっとゆりかが好きで、面倒を見てくれて。なにからなにまで。でもゆりかは行ってしまった。」

涼雅が、

「玲真の父親ってどこに?」

「彼は今でもタンゴの世界にいるから、私もよく知ってる人。若かったのね。許してあげて。」

「会えるんですか?」

「私から聞いてみてあげるから。」

俺の父親って他にいたんだ。母親が分かっただけでもショックなのに。伯母さんは、

「ゆりかは、妊娠中酷いウツになって、混乱して、長い間病院にいた。でも子供を生んだことだけは覚えてるって。」

涼雅が、

「そんなに酷い状態で。」

「アルゼンチンに戻ったら、かなり快復したようで。」

伯母さんは、

「玲真ちゃん。」

って、またそう呼んで、

「貴方のお母さんのこと、許してあげて。」

「俺も同じ病気だし、妊娠したり、色々あったと思う。」

「来年、日本に来る。」

「えっ?」

「日本でタンゴの大きな選手権があるから。」

涼雅が、

「やったな、会えるじゃない。」

伯母さんが、

「ゆりかは私よりずっとラテンの血が濃いから、会いたい、って言えば今すぐでも飛んで来るわよ。」

俺が、

「そこまではいいですけど。」

「今、ビデオ通話とかあるじゃない?今度あれ設定してみましょうよ。喜ぶわよ。」

「だったら、どうして今まで会いに来てくれなかったんだろう?」

俺はそんなこと言うつもりじゃなかったけど。

「貴方のお父様のことを信頼してるから。安心して任せてる。ご家族の邪魔したくないのかな?」

「俺、今年20才になりました。」

「そうね。貴方の今のお母さんに伺った。」

「なんでお葬式の時、声かけてくれなかったんですか?」

「貴方は、お父様とお母様と弟さんとずっと一緒にいて、やっぱり遠慮しちゃった。遠くからは見てた。ゴメンなさいね。」


帰り道、車の中で俺は、

「俺って、弟とも血がつながってないんだ。」

って、泣いた。涼雅は、

「そんなの関係ないだろ?兄弟なんだから。」

「だから、親戚中で俺だけバカで勉強ができないんだ。」

「ほんとのお父さんに会うの?」

「分かんない。きっとバカで無責任でいい加減なヤツ。」

「なるほど。玲真は父親に似たんだな。会った方がいい。」

「やだ。やっぱり会わない。俺のことすてて逃げたんだから。」

「でも若かったからしょうがないって。」

「世の中そんなヤツばっかじゃない。若くてもちゃんと責任取れるヤツもいる。」

でもやっぱり弟とも血がつながってないって、どう考えてもショックで。俺の家族も親戚もみんな他人だったんだ。幸い、父親と血のつながりがないのは嬉しい。でも考えてみたら好きな女のために、そこまで世話を焼けるのはすごい。自分の子じゃないのも分かってて。っていうか、分かってたのかな?それとも生れてみて分かったのかな?その辺はほんとの両親に聞いてみたい。俺の父にはあんまりそういう話しはしたくない。どっち道、俺のことは愛してないし。まあ、育ててくれた恩はあるけど。2度目の母にもお世話になった。弟はいつでも可愛い。考えてみたら、日本人男性でプロのタンゴダンサーなんて、なん人もいないんじゃないかな?ネットで動画とか観てみよう。俺がゴチャゴチャやってると、涼雅がのぞきに来る。

「タンゴ?」

「うん。日本人で男性のタンゴダンサーなんて、そんな何百人もいないんじゃないか?って。」

「父親捜し?」

「俺ってなんか孤児みたい。悲しくなってきた。」

「タンゴのダンサーが両親なんて、すごいじゃない!俺、マジでタンゴやろうかな?」

「え、マジで?」

「ハマりそう。」

「俺、無理。あんなに引っ張り回されたら、眩暈して倒れる。」

「あ、この男。色気あるな。ダンス上手いし。」

俺達はPC の動画を一緒にのぞき込む。涼雅の方がよっぽど真剣。

「涼雅、女と踊れるの?」

「そりゃあね。よくこんなピンヒールで踊れるな。感心する。」

「俺、ダメ。」

「だってダンサーって、ゲイの割合高い世界でしょ?みんな女と踊ってんじゃない?」

「そう言われてみたら、そうか。」

「君のほんとのご両親に会う時、俺達のクールな男同士のタンゴを見せてあげよう。」

「絶対、ヤダ!」

「まあ、いいけど。この男もいいな。タイプ。」

「え、どれ?こんなの若過ぎて、俺の父親のわけないじゃん。」

「俺、君の父親捜ししてないし。」

「これさー、なんか体験レッスンのと違う。こんなにクルクル回ってなかった。」

「だからこれは、社交ダンスのタンゴでしょう?先生が言ってたでしょう?」

「え、そう?全然聞いてなかった。」

「君の伯母さん達がやってるのは、本場のアルゼンチンタンゴ。人の言うことを聞きなさい。」

「集中力ないから。え、じゃあ、それで検索してみる。」

アルゼンチンタンゴは社交ダンスのヤツとは全然違う踊りみたい。涼雅の興奮は最高潮に達する。

「あんまり男前だと、女がかすむな。」

「涼雅、どうせ男しか観てないじゃん。」

「いいな。淫らな踊りだな。」

アルゼンチンタンゴって、芸術的でメチャメチャエロい。男女の足が絡み合う。俺達はますます真剣に観入って、だんだんそれがエッチな方向に向かいそうになってきた。涼雅が俺のPCを奪ってベッドルームに。

「ちょっと、俺のパソコン!」

俺はそのあとを追う。せっかく父親捜しをしてるのに。彼はベッドに寝そべって、俺は座って真面目に観る。

「この人、玲真っぽい。背が高くて細くて。」

「でもやっぱり若過ぎるでしょう?」

「君の母親が19で生んだんだろう?もしかして妊娠したのが18だろ?父親もそのくらい若かったとしたら、まだ30代だよ。」

「えー、そっか。」

「この人相当上手いよ。きっと有名な人だと思うけど。もう少し顔がアップにならないかな?」

その動画は、素人が撮ったみたいな感じので、ダンサーの名前がない。

「もういい。そんな簡単に見付かるわけないし。」

涼雅が次の動画をつけて、

「あ、この顔いいな。クラーク・ゲーブルを細くしたみたいな顔。」

俺はこないだ博輝さんと社長に言ったことを思い出して、ゲラゲラ笑う。

「なにがそんなに可笑しいの?」

「こないだ博輝さんの会社で、目標はクラーク・ゲーブルとか言っちゃって。なれるわけないのに。」

「分からんぞ。この男が君の父親だとしたら。コイツはプロだな。一流だ。」

「あんまりバカには見えないけど。」

「俺に言わせるとこの男、脳よりも性器に血流の回るタイプだ。」

俺はそれが可笑しくて、ずっと笑ってて、涼雅にちょっとずつ服を脱がされてるのも気付かず、ケツをつかまれてるのにも気付かず、ベッドに倒れ込んで、すっかりエッチな体勢になって、その時俺は、タンゴって音楽が1番エロイんだな、って気が付いた。


今日はカウンセリングの日。

「先生、ほんとにこないだ俺がいいって言った絵、買ったんですか?」

「買ったよ。彼女まだ美大生だから、絵が売れたの初めてだって。」

「へー、ハッピーでした?」

「もうじき個展があるから呼んでくれるらしい。君のお陰だ。」

「どこに飾ったんですか?」

「ダイニングルームに。」

「いいですね。絵って。」

「それで、この絵はどうかな?」

カウンセラーはまたケータイを見せて、俺の意見を聞く。なんで俺なの?今日こそ聞いてみようと思った。

「先生なんでいつも俺の意見を求めるんですか?」

「え、なんでだろう?」

「俺なんかのアドバイス求める人、普通人類にはいませんよ。」

「君には他の人にはない、特別な感性があると思う。」

「統合失調症だから?」

「それもあるけど、それだけではない。」

「じゃあね、この絵ですけど、なんか気になるんですよね。意図的な何かを感じる。俺は好みとしてはもっとピュアな絵が好きです。」

「なるほどね。じゃあ、これは?」

俺はもしかして、これもカウンセリングなのかも知れないと思って、

「この絵はね、高そうですね。」

「よく分かるね。日本画で有名な人らしい。」

「先生はもっと若い作家を応援してあげた方がいいですよ。そういうコレクターってあんまりいないでしょ?よく知らないけど。」

「こないだ観に行ったギャラリーの人に言われた。みんなポスターとかフレームに入ったヤツ、高いお金出して買うけど、そんなお金あったら、オリジナルのアートが買える、って。」

「いいこと言いますね、その人。先生、そんなことより、ビッグなニュースがあるんですよ。」

「なに?」

「俺のほんとの両親、ってまだ母親しか分からないけど、分かったんですよ。」

「すごいじゃない。」

「でもね、それですっかりナーバスで。」

「会ったの?」

「母親はアルゼンチンに住んでるそうです。」

「遠いね。会うの?」

「まだ決めてません。来年日本に来るそうで。それよりすごいのが、俺の父はほんとの父じゃなかったんです。よかった、と思って。仲悪いんで。」

「誰なの?ほんとのお父さん。」

「それがね、まだ分からないんです。両親共タンゴのダンサーらしいんです。」

「ほらね。」

「なんですか?」

「そういう感性。」

「はい?」

「タンゴのように内に秘めた情熱、みたいなものを君に感じる。」

「ほんとですか?買い被り過ぎ。まあ、それで俺、親が分かるとアイデンティティーも分かると思ったんですけど、かえって混乱する。色々心配事が増えて。一番辛いのはね、弟と血がつながってないって分かって。」

「仲がいいんだったね。」

「俺って大勢の他人の中で育ったんだな、って。知らずに。恩は感じるけど。育ててもらった。先生、それで俺、不安を感じてきたんでしょうか?中学生の頃から。」

「でも、今の方がかえって混乱してるんでしょう?」

「そうですけど。これこないだの宿題。ちゃんと10個、実行しましたよ。」

「すごいじゃない。じゃあまた10個書いて来て。それより、この絵だけど。」

「先生、この絵のことは、俺のカウンセリングと関係あるんでしょうね?」

「別に関係はないけど。」

「なんだ。じゃあもう絵は観ませんよ。」

「じゃあ、これだけ。」

「これはね、この1枚だけでは分からない。この色の濁りがなにを表すのか。」

「あ、ここにたくさんある。全部同じ画家の。」

「色の濁り。それは普通、心の不安を表してる。いいカウンセラーがいるのにちゃんと話を聞いてくれないという。」


なんだ、絵のことはカウンセリングと関係なかったんだ。今までのコンサルタント料もらわないと。俺は病院の建物を出て、噴水の天使と向き合う。この前彼女を見た時、俺はまだ両親のことは知らなかった。その時も混乱してたけど、今はもっと混乱している。俺にはダンサーの血が流れている。俺とはあまりにもかけ離れてる。俺みたいな痩せ細った依存症体質の。ダンスなんて絶対できない子供。そういうことってあるのかな?そうだよな。ダンサーの子供がみんなダンスできるわけじゃない。母の双極性障害。今はどうなんだろうか?世界チャンピョンなんだから、上手く症状を抑えているに違いない。足元に背の低い花が噴水に沿って植えてある。生きている色が俺をナーバスにさせる。花達が俺に話しかけようとしている。天使と話したかったのに、なにを言いたかったのか忘れてしまった。噴水を通り過ぎて、往来に出る。ケータイにメッセージが入る。博輝さん。仕事の連絡。今仕事したって、俺は一瞬も笑顔はできない。なんの撮影なのかな?死体の役だったらできる。あれからまた少し死人になる練習をした。バロック時代の大理石の彫像。かなり死体っぽいのがある。触って冷たい感じ。不思議だな。死ぬと冷たくなるんだ。生きてるから体温がある。俺は自分の腕に触ってみる。博輝さんから電話がかかってくる。

「玲真、どこにいるの?」

「病院を出たところ。」

「具合が悪いの?」

「今日はカウンセリング。具合も悪いけど。」

「仕事。」

「はい。」

「君に、っていう指定で。」

「あんまり元気いっぱいな顔は難しいかも。」

「それは俺にもまだよく分からない。」

「博輝さんの言ったの当ってましたよ。」

「なに?」

「俺の母親、アルゼンチン人で、ラテンの血の濃いタイプらしいです。」

どうしても元気よく笑ってるのを要求されたら、俺はどうするか知ってる。酔い止めと痛み止めをウォッカに入れて飲む。30分くらい笑える。そのあと1時間くらい落ち込む。簡単なこと。俺の顔、マネキンみたいだそうだから、笑ってた方がきっと生きてるみたいに見える。ドラッグストアがあったから、酔い止めと痛み止めを買う。コンビニがあったから、安いウォッカを買う。小さなボトル。これで撮影の準備はできた。俺はちゃんとした撮影って2回しかしたことないし、いつも誓也だったし。他の男にも裸の写真は撮らせてたけど。誓也だけがプロのフォトグラファーだった。

「玲真にクライアントさんから、白、について考えておいてって。」

「白?」

「また洋服のブランドで、夏物。白がテーマだって。」

全然知らないブランド。撮影は3日後。白について考えて来いって、その人達、頭大丈夫?なんで俺が考えるの?もし考えたら、その通りにしてくれるの?白なんて言われても、俺、死人の顔のことくらいしか浮かばない。触って冷たい白。大理石の。死体は笑わないよ。そしたら俺は笑わなくていいのかな?


現場に行ったら、そこはあまりにも死体が似合わなくて、また1から、白について考えないといけない。太陽。砂浜。海。どうしよう?服を見せてもらった。シンプルだけど主張の強いデザイン。靴や小物まで全部白。女性モデルがいて、ブロンドで、顔はそんなに綺麗とは思わないけど、身体の筋肉の付き方が絶対バレリーナ、って感じ。ロシア人で全然日本語が分からない。博輝さんが現場に来てくれて、

「彼女とは別に撮るらしいから。」

「そうですか。」

少し安心する。俺の髪は結んでオールバック。メイクが終わって、全身真っ白な服を着せられる。デザインの凝ったシャツに、幅広のパンツ。両方とも夏らしいリネンが入ってる。俺の頭の中から死人が消えて、太陽と砂浜と海。内に秘めた情熱?誰かが言ってた。俺のいい加減なカウンセラー。人のことを絵画購入のアドバイザー扱いにして。情熱?全然白くないけどいけるかも。博輝さんが今日のクライアントを紹介してくれる。デザイナーは男女の若いカップル。女性の方が、

「どう?白について考えてくれた?」

意外とフレンドリー。俺は思わず、

「情熱。」

って答えたけど、説明はできない。でも彼女も説明は求めない。

「俺の両親がアルゼンチンタンゴのダンサーで。」

「まあ、素敵ね。」

「あの、でも俺は全然踊れなくて。」

さすがに会ったことない、とは言えない。なんで白が情熱なのか自分でも分からない。デザイナーのカップルが話し合って、なんと俺とそのブロンドの子が一緒にタンゴのポーズをとることに。俺は全然ダメだけど、その子はやっぱりバレリーナで、タンゴはなんとなくイメージできるって。ネットの写真を参考にしながら撮影して、俺がバランスとれなくて、倒れそうになってみんなに笑われて、その子がカッコいいポーズを色々決めてくれたから、なんとかなって。帰りの車で博輝さんが、

「あの子、見事な足してたよね。」

「うん。ビックリした。長い足。」

「さっきの写真、話題になるよ。さっそく君のプロフィールに入れよう。」

「あれじゃあ、俺なんてただの引き立て役。」

「君の横顔アップになったの、すごくよかった。」

「あの写真、本職のタンゴの人が観たらどう思うんだろう?」

「君のご両親ってタンゴのダンサーなの?」

「そうらしいです。知らないけど。」

「知らないの?」

「会ったことないし。」

「さっきのタイトル、情熱の白、だって。」

「そのまんまじゃない?アイディア料もらわないと。」

「いい仕事だった。君のキャリアに役立つ。」


涼雅の所で降ろしてもらって、写真を見せたら、

「玲真、メチャかっこいい!やっぱり俺達、タンゴ習おう!」

俺はイヤだと言って、マンションの中を走って逃げ回る。でも涼雅に捕まって、

「日曜日、また体験レッスンに行こう。伯母さんにこの写真見せて感想を聞くといい。」

「やだ。」

「ダンスはいいぞ。モデルのポーズとる時に使える。」

「ああ、そのブロンドの子、すごくよかった。バレリーナだって。」

「そうだろう?」

「体験レッスンってなん回も行っていいもんなの?」

「じゃあ、本物のレッスンしに行こう。」

「涼雅、ひとりで行って。」

「俺は君と踊りたい。」

「女と踊ればいいじゃない?」

「男同士のクールな踊りがいい。」

「マジで?」


信じられないことに、俺達はレッスンに行き、男同士のタンゴが歴史にあったなんて、知らない人もたくさんいるから、俺達なんていい見世物で、でも涼雅はセンスがいいって、先生に褒められるほどで、俺なんてウロウロするばっかりで。レッスンのあと、また3人でお茶に行った。俺は、

「ダメだって。俺なんて突っ立ってるだけで。」

伯母さんは、

「でもこの写真ではすごいポーズ決めてるじゃない?」

「それはね、やらざるを得ない状況に立たされたから。」

「じゃあそれやりましょう。」

「えっ?」

「やらざるを得ない状況。」

涼雅が横からいいアイディアだと手を叩く。

「来年、大きな選手権があるって言ったわよね。その週は家のお教室でもイベントがあって、初心者のデモンストレーションもあるから。」

俺はショックで絶句。涼雅は嬉しそう。

「あと半年あるから、一歩一歩前進していきましょう。」


家に帰ると、涼雅は家具まで動かして、練習する場所を作って、

「じゃあ、今日習ったところをやろう。」

「もう全部忘れた。」

「大丈夫、俺が覚えてるから。」

「えっ?」

「今度この壁にでっかい鏡をつけよう。」

「なんでそんなにやる気なの?」

「君のお母さんも来るし。」

「涼雅に関係ないじゃん。」

「でもさ、出会いとしてはドラマティックじゃない?タンゴを披露して、そのあと親子の対面。」

「全然ドラマティックじゃないし。」

「アルゼンチンタンゴは本物のダンディズム。」

「あ、それちょっとそそられる。」

「それに本物の退廃。」

「それもいい。」

「そうだろう?じゃあ今日やったとこ。」


身体を動かすこととか、新しいことを習うとか、そういう普段やらないことをする。覚えることもいっぱいあって、俺の頭がそれでいっぱいになって、あんまり他のことは考えてない。俺は教室では全然覚えられないけど、涼雅がふたり分覚えて来て教えてくれる。涼雅の部屋の、壁いっぱいの大きな鏡の前でステップを踏む。伯母さんは、時間外にも教えてくれる。伯母さんのパートナーは、男同士の振り付けを特別に考えてくれる。それはとてもありがたい。モデルの仕事もまだ小さいのが多いけど、続けている。確かにタンゴはポーズをとる時に役に立つ。いつも鏡の前で形を作ってるから。伯母さんのタンゴ教室のポスターのモデルをやった。相手役はプロの女性で、その人の注文が多くて大変だったけど、いつもお世話になってるんで、しっかりやり遂げた。それをさっそく博輝さんに見せる。

「玲真、健康的になったな。」

「いいことかどうか分かんないけど。」

「いいことだって。目標があるのは。」

「時間の経つのが速い。」

「いいじゃない。」

今夜俺は、博輝さんと一緒に彼のお勧めの渋いバーに来ている。ここはラテン系の音楽が多くて、ダンスの曲も色々かかって、アルゼンチンタンゴの曲もかかる。俺は思わず立ち上がって踊ってしまう。店の人が、

「タンゴやられてるんですか?」

「まだ始めたばっかり。」

「俺もずっとやりたいな、って」

「なんか知らないけど誘われて。」

「タンゴの曲が好きで。」

「退廃的な。」

「そうそう。バンドネオン。」

「なんでしたっけ、それ?」

「楽器。」

「あ、思い出した。アコーディオンみたいだけど、違うヤツ。」

「そうそう。あの音が好きで。」

それでその人は他のお客さんに呼ばれて行ってしまって、博輝さんが、

「あのタンゴの写真、海で撮ったの。やっぱり評判いいよ。よく聞かれる。モデル誰?って。」

「あれは本職の伯母さんでさえ、よくやった、って。」

「すごいじゃない。いくつか問い合わせが来てるけど。君はどんな仕事がしたいの?」

「えー、考えられない。」

「未来のこと考える勉強してるんでしょう?」

「あの10個のリスト?そうだけど、くだらないことが多いから。部屋の片付けするとか、そんなのばっかで。」

「君がどんな仕事していきたいのか分かれば、こちらもそのつもりでプロモートできるから。」

「考えたことないから難しい。」

「背が高いから、ファッション関連はいいと思うんだ。雑誌の専属は?」

「それってなにするんですか?」

「毎月その本に載る。上手くいけば表紙になったり。タイアップの広告とか。」

「ファッション雑誌なんて自分も読まないのに。」

「ショーに出る?」

「どうだろ?」

「君って欲がないね。他の子達とは違う。」

「他の人はどうなんですか?」

「あれがやりたい、これがやりたいって、うるさくてしょうがない。」

「今、思えば。」

「うん。」

「誓也の撮ったヌードが懐かしい。あれは俺、だった。」

「君は変わってしまったんだから、ああいう風にはなれないよ。」

「だから懐かしい。昔の俺。病院の消毒薬みたいな、あの臭い。」

「ああいう写真雑誌に載るような、アートっぽいのがやりたいんだったら、北山誓也に連絡とってみたら?なにか考えてくれるかもしれない。」

「誓也とだったら絶対やりたい。今、ライン送っていいですか?」

「もちろん。」

誓也は今どこでなにしてるんだろう?世界的に活躍するファッションフォトグラファー。

「よかった。今、東京にいるって。なんて言えばいいかな?」

「一緒に作品創りたいって。」

「ほんとの俺を撮って欲しい。」

「いいじゃない。それ言ってみたら?」

「えっと・・・いくつかモデルやってみたけど、俺じゃない。ほんとの俺を誓也に撮って欲しい。」


3日後にニューヨークに行くところを捕まえた。スタジオをとってくれて、

「玲真、ほんとの自分って、君はなんだと思うの?」

「死人。冷たくて。絶対生き返らない。」

「今の君は健康的で、死人にはとても見えないよ。」

「じゃあなに?微生物?昆虫?爬虫類?」

「そういう風にも見えないよ。」

「じゃあ、鳥類?」

「そういえば、こないだ天使の翼を創って、結局使わなかったんだけど。」

「なんで使わなかったの?」

「クライアントの気が変わって。まだこのスタジオの倉庫に入ってる。」

「天使だったら、とりあえず人間じゃないし。それだったらいけるかも。」

ふたりでその倉庫に行ってみる。

「翼ってこんなに大きいの?」

「モデルが男性で背が高くて。そうそう、丁度玲真くらい。」

「ここすごいね、色んなものがある。その棺桶みたいなの借りてもいいのかな?」

「そんなの借りてどうすんの?」

「分かんない。衣装もたくさんあるね。」

「君は衣装はなしだから。」

「またヌード?」

「多分ね。この羽もったいないから使いたい。大分金かかった。創るのに。」

「なんの撮影だったの?」

「広告。日本に初めて参入の外国メーカーのアイスクリーム。」

「羽なしで、どうなったの?その撮影。」

「結局顔だけアップで、アイスクリーム食べてるとこ。」

「男のモデルでしょう?」

「リキュールが入ってて、大人向きの商品。」

「え、美味しそう。食べたい。」

「家にくればたくさんあるぞ。サンプルもらったから。」

「遠慮しときます。」

この男、俺のヤリトモだったから、セックスもよかったし。だからヤバい。

「あんなモデルより玲真の方がアイスクリームっぽかった。」

「俺ってアイスクリームっぽいの?」

「白くて冷たい。」

「やっぱり死人だ。」

「そのモデル、クライアントのご指名だったから。」

「俺の行ってる病院、噴水に天使が立ってて、俺はいつもその足元で死にたいな、って。」

「死んで復活、っていうのはどう?復活祭。イースター。」

「なにそれ?キリスト教?」

「イエス様がお亡くなりになって復活する。」

「誓也ってキリスト教だったの?」

「親がね。」

「だから誓也なんだ。」

「あんまり、聖しこの夜みたいな漢字じゃあな、って思ったらしい。」

「へー。」

「だから死ぬとこじゃなくて、復活するとこをやろうよ。」

「どういうこと?」

「君が死ぬだろう?死ぬのは好きだからよく分かってるだろう?」

「うん。」

「生き返る、って言うより、初めてこの世に生まれて来る。」

「赤ちゃん?」

「そうじゃなくてさ、例えば彫像が突然生を受ける。この世の色んな事物を見て感動する。なんだろう、これ?なにを見ても新鮮。」

「最近、大理石の彫像になる練習をしてた。自分で写真撮って。」

「いいな、それ。それが急に生きる。」

「急に生きる?死ぬんだったらできるけど。」

「じゃあ、まず死人になって。それから目を開ける。」

「死ぬ時の逆なんだ。」

「そう。」

「やってみよう。翼はつけるの?」

「せっかくだから使おう。」

「いい加減。」

「玲真は羽似合うよ。」

「そうかな?だったら嬉しいな。」

「それじゃあ、大昔に創られた大理石の彫像が生を受けるところ。アンドロイドとか、人工知能とかが生を受けるんじゃなくて、あくまでも天使の神話でいくから。」

「分かった。じゃあ、まず死ぬから。」

ヘアもメイクもなしで。素顔の俺。当たり前だけど、1番俺らしい。天使の翼は慣れてないから、なんだかバカみたいに見えるけど。誓也は俺が死んでるところを撮る。

「俺、死んでるみたいに見える?」

「死人が喋るな。でも死ぬの上手。」

よかった。死んで生き返るとか、生きてない物が生き始めるとか、それってどういう感じなんだろう?死人の俺はほんの少し目を開けて、ほんの少し口も開けて、肌を硬直させる。どうせならオフィーリアのように水の中で死んでいたい。俺は黙って生き返って、トイレに行って、髪も顔も水で濡らして、帰って来る。誓也はなにも言わずに、死人の俺を撮り続ける。俺っていい溺死体に見えるかな?俺がオーバードースした時、誓也は救急車を呼んで、病院まで一緒に来てくれた。あの時はふたり共酔ってて、俺は側にあった綺麗な色のカプセルや錠剤をたくさん手に取って、それをウォッカと一緒に喉に流し込んだ。あの時死んでたら?ひとつひとつの色が俺の身体の中で溶けて、混じり合って、俺を死へ導いてくれる。そんなことを思い出しながら死んでいたら、

「死んでるのはもう十分だから、今度生き返るのをやろう。」

あれから色んなことがあった。涼雅から抗不安剤を盗んで、全部飲んでやったけど、やっぱり死ねなかった。そのあとたくさんあった睡眠薬を涼雅に取り上げられて。俺はまだ生き返る準備ができていない。

「まだ生き返るのはイヤだ。」

「そういう我儘は言わないで。やってみたらいいかもしれないし。ほら、死人の写真。」

俺はドキドキして写真を観る。なるほど。たくさん練習したかいはあるな。肌質が死人そのまま。水で濡らす時、顔に冷たい水を何度もかけたから。天使の羽は俺の下にあって、床も白いから、なんだかよく分からない。俺の痩せた胸が憐れみを誘う。若くして死んだ。でも死んだって、一体なにが死んだの?俺ってなに?なんだか知らないけどタンゴダンサーの間に生まれた。

「誓也。俺の両親って、タンゴのダンサーなんだって。」

「会ったの?」

「まだ。」

「ビックリだね。やっぱりアーティストなんだね。」

「やっぱりって?」

「玲真、アーティストじゃない?」

「なんで?」

「死んでるとこ練習するなんて、まともなヤツにはできない。」

「死んでるとこはできるけど、生きるとこはできないかも。」

「目を開けて。少しずつ。初めて世界を見るように。」

俺はまだ気持ちの準備は全然できてなかったけど、少しずつ目を開けてみた。

「なにが見える?」

「誓也のカメラ。」

彼は俺の顔の真上から撮っている。

「他には?」

「空気。」

「いいね。君は空気さえ見たことがなかったから。」

「それから?」

「ペンキみたいな臭い。」

「このスタジオ、ペンキ塗ったばっかだから。それからなにが見える?」

「俺の背中がくすぐったい。」

「羽。ちょっと立ってみよう。」

俺は自分の存在を確かめるように、身体に触る。そして記憶をたどる。覚えていることはなにもない。それは俺が今生れたばかりだから。俺の目が遠くを彷徨う。そこには驚きや喜びはない。混乱と不安。俺は手足を動かしてみる。背中の羽がまたくすぐったい。世界中の悪意を感じる。生れて来てはいけなかった。スタジオの空調の回る音。誓也のシャッターを切る音。この世界に俺の居場所はない。俺は病気で錯乱した10代の母親から生まれた。父親の知れない子。

「玲真。」

誓也の優しい声で目が覚めた。

「玲真、大丈夫?」

死んで、また生れて、でも望まれた生ではなかった。

「玲真、撮影はもう終わったよ。いい表情、不思議な表情をたくさん撮ったけど、君はなにか混乱してる。俺はなにか触れてはいけない部分に触ってしまった。誰かを呼ぶから。あの時一緒にいた人。」

「涼雅?」

「うん、その人。」


涼雅はまだ仕事で、俺達はスタジオを出て、近くのカフェで時間を潰した。でき上った写真はほんとに不思議なもので、俺は死んでいる様にも、生きている様にも見えない。空間に浮遊しているある種の不思議な植物みたい。俺はずっと静かで、誓也がなにか質問した時は答えるけど、そうじゃない時はじっと黙っていた。それでも撮った写真には興味があって、何度も見せてもらった。これがほんとの俺なんだな。ほんとの俺を撮って欲しい、って言ったけど。こんなに上手くいくとは思ってなかった。誓也はニューヨークから戻ったら、ギャラリーで個展をやるから、そこに出品したいって。


涼雅が来てくれた。誓也としばらく俺の聞こえない所で立ち話しをしていた。俺は車で涼雅の所に行った。彼はずっと俺の側にいてくれて、でも俺は落ち着かなくて、立ったり座ったり、歩き回ったりしていて、そのうち彼のマンションの部屋をキョロキョロ見始めて、ベッドの下をのぞいたり、クローゼットを開けてみたり、

「玲真、君の捜してる物はここにはないよ。」

アレはきっと車の中にある。車のキーを見付けて、辛抱強くスキをうかがって、コッソリ外に出た。キーでトランクを開けると、セキュリティーアラームが狂ったように鳴り出した。目的の物さえあれば、俺はそんなことは全く気にならない。大きなバッグ。とても重たい。製薬会社の営業用の。俺はバッグごとつかんで走り出した。すぐ側が大きな通りになっていて、簡単にタクシーをひろうことができた。どこへ行く?誰にも見付からなくて、これから俺のすることが成功できるところ。バッグの中を確認する。暗くてよく分からない。でも薬類はたくさん入ってる。全然知らない場所で降ろしてもらった。繁華街と住宅街の中間くらいのところ。コーヒーショップの明るい電気が見えた。コーヒーを頼んでレジでお金を払って、でもそれには一切手をつけずに、バッグの中を探った。知らない薬が多い。俺はひとつひとつケータイで検索していく。内科の薬が多い。俺は精神科の薬を捜しているのに。ヤルなら精神科の薬がいい。それは俺の脳を破壊するから。やっと抗精神病薬が出て来た。大した量ではない。でも調べてみないと分からない。俺の使ったことないヤツだから。標準使用量は?計算すると思ったより強力な薬だということが分かる。これで十分いけるかも知れない。でもこれだけじゃ心配だな。もう失敗はしたくない。やっとコーヒーに手を付ける。すっかりぬるくなっている。どれだけ金を持ってるか気になって、ポケットに手を突っ込む。手がなにかに触る。いつか買った酔い止めと痛み止め。俺はこれをウォッカで飲むと、30分くらい笑えて、そのあとウツになる。脳に効く作用があるということ。薬局でもっと買って、ウォッカも買って、抗精神病薬と一緒に飲もう。俺は席を立って外に出て、商店街に向かって歩き出す。途端にパトカーが一台、コーヒーショップの前を走り過ぎる。ゆっくりと。なにかを捜しているみたいに。誰を捜してる?俺のこと?でもどうやって?タクシーかな?どこで降りたか分かれば。俺は重たいバッグを抱えながら、電車の駅を探す。この近くにはいられない。幸い地下鉄の駅がすぐ側にある。俺はそれに乗って、聞いたことのない駅で降りる。エスカレーターと階段で地上に出る。ほとんど真っ暗だけど、都内に間違いはないから、って思ってなるべく明るい方へ向かって歩く。品のいい小さなホテルがある。なんでこんな何もない所に?中に入ってみる。ドアの側に立っているスタッフに、くだらない質問をしてみる。

「なんでこのホテル、周りになにもない所にあるんですか?」

「このすぐ裏にね、大きな大学があるんです。」

「なるほど。そういうこと。」

「お泊りですか?」

「ここ高いの?」

「日によって違いますので、フロントでご確認ください。」

って言われたから、聞きに行った。俺の持ってる金でなんとかなる範囲。ひと晩しかいらないし。


考えてみたら、ひとりでホテルに泊まるなんて初めて。変な気分。この空間はひと晩、俺だけの物。ベッドに横になる。誓也のことを思い出す。ギャラリーの個展。俺の写真の周りには黒い枠をつけるのかな?バッグの中の物を全部ベッドの上に落とす。やっぱり精神科の薬はひと種類しかない。もう1度その薬について調べてみる。かなり新しい薬。新しい薬は安全にできてるから、たくさん飲んでも死なないのが多い。もっと古いヤツだったらよかった。俺はそれだけジャケットのポケットに入れた。大した意味はないけど、大事な物だと思ったから。フロントでまだ開いているドラッグストアの場所を聞いた。歩いている途中で大学のキャンパスが見えて来た。弟のことを思い出す。上手くいい大学に入学して、いい人生を送って欲しい。お店で酔い止めと痛み止めを、多分普通より多めに買ったけど、なにも聞かれなかった。もっと買えばよかった。コンビニに入って、そこにあるウォッカの1番大きいボトルを買った。探したら酔い止めはなかったけど、痛み止めはあったから、たくさん買った。ホテルに戻ろうとして、信号の場所が遠いから、道を横切ろうとしたら夜なのに忙しい通りで、なかなか車が切れない。そしたらホテルのロビーに、同じような黒い服を着た男がふたりいるのが見えた。危険を感じて、さっきの地下鉄にまた戻って、ホームで待ちながら、どうして俺のいるホテルが分かったんだろう?色々考えたけど、もしかしたら涼雅のバッグになにかの仕掛けがあるのかもしれない。劇薬が入ってることもあるだろうし。今度は大きな繁華街で降りた。結局身を隠すならこういう場所がいいことが分かる。駅前でクレジットカードでキャッシュを下ろした。父親が保証人のカード。請求は全部あっちに行く。今まで家賃と生活費を払ってくれてありがとう、って言ってみる。本心ではない。すぐ街の人ゴミに紛れる。抗精神病薬は俺のポケットに入っている。奇跡ってヤツ?無意識にそれだけポケットに入れた。幸運が向いて来た。まだ人のたくさんいる坂を登って行く。人気のセレクトショップのウインドーから、情熱の白いタンゴのポスターが見える。俺とバレリーナの。伯母さんにもありがとう、を言ってみる。ダンスの才能なくてゴメンなさい。お世話になりました。これは本心。大きなドラッグストアがある。俺はたくさん酔い止めを買った。金を払う時、随分多いですね、って言われてドキってしたけど、世界一周旅行に行くんでって言っておいた。これはちゃんと前からそう言おうと考えてた。ウォッカのビンと薬を持って歩き回って、いくつか安ホテルを見たけど、やっぱり静かな少しだけ高級なホテルにしようと思って、ケータイを見た。涼雅から、くず餅を買って来たから早く帰って来い、というメッセージ。怒ってるだろうな。俺って反省も進歩もない。近くに4つ星のホテルがある。行ってみたらあんまり高級過ぎて、どうしようって迷ったけど、死ぬ人間がそんなこと心配しなくていいよな、って思ったから、堂々と入って行った。一晩分現金で払って、エレベーターに乗る。なんでか知らないけど、夜景まで見えるいい部屋。博輝さんのことを思い出す。色んな渋いバーに連れて行ってくれた。どうもありがとう。お世話になりました。俺って、遺書とか書いた方がいいのかな?俺は持ってた物をみんなベッドの上に放り出して、夜景を眺めながら、ホテルのノートに遺書を書き始めた。俺はアーティストだそうだから、なにかアーティスティックなことを書こう。考えても全然思い浮かばない。俺、アーティストでもバカだから。ウォッカのボトルを開けて飲み始めた。最期だったらもっといいヤツを買えばよかった。まあいいか。やっぱり涼雅には悪くてなにを言っていいのか。最初の出会いからアレだったから。あの睡眠薬があったらこんなことにはならなかった。出会いもせずに死んでいた。もしかして責任を取って、涼雅は製薬会社を首になった。それだけのことだったのに。随分遠回りをしてしまった。タンゴのパートナー、誰かいい人が見付かるといいな。ドクター澤村にもお世話になりましたって書こう。あのカウンセラーはいい加減だったからいいや。でもそんな風にひとりひとり書いてたら大変だよな。それにしても俺のほんとの両親に会わなくてよかった。会った途端に死なれたんじゃ、気分悪いだろう。そう考えたら今が1番いい潮時だな。酔う前になにか薬を飲もう。どれから始める?やっぱり抗精神病薬かな?全部飲むと、標準使用量の30倍になる。それって結構ヤバいよな。多分死ぬ。1カ月分をいっぺんに飲むことになる。いや死なないかな?今時の新しい薬はそんなに簡単に死ねない。昔の薬だったら多分死ねる。どのくらい昔の話しなんだろう?1970年代とかそんなもん?なにも食べてないからウォッカが胃にしみる。マーゴ・ヘミングウェイがオーバードースしたヤツは、今じゃほとんど手に入らない抗不安剤。今、ああいうのがあったらすぐ死ねる。彼女は俺の好きなオーバードースセレブ。間違いは夏にやったこと。発見が遅くて死亡原因がなかなか特定できなかったらしい。俺は明日には発見される。遺書はなかなか書けなくて、集中力ない上に酔ってるから、紙にグチャグチャ絵を描き出した。そしてそれも放り出してグラスを持ちながら夜景を眺める。人生最期の。


小さくドアをノックする音がする。おかしいな。ノックする人なんているわけないのに。俺は静かにドアに近付いてのぞき窓から見る。ホテルの制服を着た男。俺はドア越しに、

「なんですか?」

「ご注文の物。お持ちいたしました。」

「なにも注文してませんけど。」

その時ドアのカギが開けられて、男達がドヤドヤ入って来る。そのひとりは涼雅で、

「玲真!大丈夫?なにか飲んだ?」

俺はショックで固まってなにも言えない。どうしてここが?警察官が薬の箱を調べて、

「開封してるのはないみたいです!」

救急隊が俺の目を見たり血圧測ったりなんだりして、俺なんてなんにも飲んでないのにそのまま救急車に乗せられる。自殺願望があるから。だよな?俺の華麗なる救急車乗車歴。涼雅は俺にピッタリくっ付いている。どうしてこの人はいつも俺の邪魔をする?

「よかった。間に合って。君のケータイが役に立った。」

俺のケータイ?そっか、俺ってやっぱりバカなの?GPS

「君が迷子にならないように。」

俺って子供なの?俺は病院でも一貫して黙秘権を行使する。なんとか問題行動を起こそうとスキをうかがっている。こんなに遅い時間なのに、救急室にもちゃんと精神科の医者がいる。若くて俺の知らない人。涼雅が、

「もう何度もやってて。今回は間に合ってよかった。」

ドクターが、

「君は病気なんだから。みんなで根気よく治していこうね。」

そうやって優しく言われるとかえってムカつく。それまでは大人しく固まってたけど、俺は突然立ち上がって廊下へ走る。この病院の地理は新米ドクターよりよく知ってる。俺はここで育ったんだから。そしたら俺のケータイがまだポケットに入ってることを思い出して、ゴミ箱にすてる。ここはまだ精神科じゃない。だからカギはかかってない。外に出たい。ここにはいたくない。入口に警備員がいる。俺は自然に見えるように歩いて外に出て、天使に挨拶して、いつも駅に行くのと反対の方向に向かう。裏道を上手く抜けて安全な所まで来た。どうしてあの男はいつも俺の邪魔をするのか?もう疲れた。あんなにいいホテルで死ねたのに。誓也が撮ってくれた写真みたいに、いい死に顔で。誰もいないビルとビルの間に腰を下ろした。あの撮影の時、死んでまた生れたけど、俺は混乱と不安しか感じなかった。この辺は飲み屋街で、あんまり品のいい店はなくて、ほとんどはもう閉まってる。どこかからジャズが聴こえる。俺はその方向へ向かう。そしたらどこかのマンションの誰かの部屋から聴こえる。少し開いた窓から小さい音で。博輝さんに会いたいな。ケータイがなくなったから連絡できない。あの人の家も知らないし。オフィスなら知ってる。明日行ってみる?そしたらきっとすぐ涼雅にチクられる。他にやることも行く所もないし。運よく最終電車に乗れて、彼のオフィスのある駅で降りる。しばらく歩いて、1度しか行ったことのない割にはすぐ見付かって、狭い庭に生えている低木の陰に隠れて寝た。


人声で目が覚めた。オフィス内に人のいる気配がする。博輝さんがいるかどうか分からない。俺はフラっと入って行って、1番近くにいる人に、

「博輝さんは?」

「今日は現場ですよ。」

「どこですか?」

「今、連絡とってあげるから。」

もしかしてみんなして涼雅にチクるつもりかな、って思ったけど、それより疲れてるし、博輝さんと話がしたかった。彼とすぐ連絡がついて、俺は電話で話す。

「玲真、なんでそんなとこにいるの?」

「博輝さん、涼雅に聞いてるの知ってます。ただ話しがしたかったから。」

「これからどうするの?」

「病院には入りたくない。」

「じゃあそれを涼雅に言ってあげる。」

「絶対入れられる。」

「ここまで来られる?」

「どこですか?」

博輝さんは場所を教えてくれた。いつか俺が縦ロールにされた、あのスタジオ。タクシー使っていい、俺が払うから、って親切に言ってくれたけど、俺もまだ金持ってたんで、ちゃんと自分で払った。

「ひどい顔だよ。大丈夫?」

「涼雅にはもう言ったんですか?ここにいること。」

「まだ。」

スタジオの撮影はなんかの広告でモデルは若い女性達。賑やかな笑い声。

「玲真のために1番いいことを考えないと。」

「病院には入らない。」

「それが希望なら、なんとかしてそういう環境を作らないと。君が安全な生活をできるような。君自身が努力しないとできないよ。」

「はい。分かります。」

「まず死にたいとかそういう気持ちを忘れるような、そういう状況を作る。」

俺は一生懸命考えるけど、死にたい気持ちを忘れられるような状況は考えられない。

「それができないなら、病院に入れるしかないから。」

涼雅との関係が複雑で、俺のストレスになってる。それは分かってる。彼は俺の死にたい気持ちを分かってくれない。そう思う。

「博輝さんといられるなら、落ち着けると思います。」

この人なら俺の気持ちを分かってくれる。

「俺と一緒にいても、俺はなにもできないかも知れない。」

博輝さんは長袖シャツの袖をめくって、腕の長い傷跡を見せてくれた。だからどんなに暑い日でも半袖を着なかったんだ。

「貴方みたいな人の方が、きっと俺の気持ち分かってくれる。」


俺が落ち着くしばらくの間だけ、という約束で涼雅にも納得してもらい、病院にはちゃんと通う、という条件で俺は博輝さんの家に住むことになった。もうあの時の狂ったような自殺願望はない。死にたいとは思ってるけど。住所をもらって場所を捜す。もともと方向音痴で、その上ケータイをゴミ箱に投げて来た。大田区とかあんまり俺の知らないエリアで、商店街が充実してて、人々はフレンドリー。あちこちで人に尋ねながら、やっとその家に着いた。古い一軒家。カギももらって来たけど、玄関が開いている。中から見てくれのいい少年?多分、少年と青年の中間くらい。俺のことをジロジロ見る。俺は疲れて機嫌が悪かったから、こっちもそいつのことをジロジロ見てやる。見たことがあるということに気付いた。俺のいるエージェンシーで、1番売れてそうなモデル。よく知らないけど。ウエブサイトに写真がたくさん載っている。ソイツが、

「ふーん。実物の方がいいね。」

感心した風でもなく。

「部屋はここを使って。今日は博輝、遅くなるって言ってた。」

博輝さんのこと呼び捨てにするのが気になった。別にどうでもいいや、って考えようとしたけど難しかった。

「荷物が全然ないの?住む所ないの?」

「住むとこはある。」

「そこには誰が住んでるの?」

「誰も住んでない。」

「ふーん。」

父が家賃を払ってるマンション、まだそのままなんだけど。病院でひとりで住むなって言われた。もったいない話しだけど。涼雅の所にタンゴの練習に行って、そのまま泊ることが多かったから、もともともったいないとは思ってた。ソイツと一緒にいたくない気分だったから、さっきの商店街に戻った。簡単な食事をして、安い着替えを買って。Tシャツとか下着とかソックスとか。俺の住み家に戻ってみようかな、とも思うけど、気持ちが不安定になりそうで、それも怖い。どこにいても不安はつきまとうけど。暗くなって博輝さんの家に帰ったら、ソイツはいなかった。誰もいない知らない家。キッチンとかバスルームとかを見て回った。思ったほど安心な気分にはならない。古い家のせいかな?こういう所には迷い込んだ霊とか、そんな変なものが住んでいる。風呂場のタイルに人の顔が映ってるような気がして、ゾっとしたけど、それはただの見間違いだった。まだ早かったけど、俺は薬を飲んで、さっさとベッドに潜り込んだ。


夜半に人声がして目が覚めた。博輝さんの声。

「だからあの仕事は、彼の方がイメージだからって。」

「最初は俺のこと気に入ってたのに。」

「クライアントの決断だから。俺にはどうにもならない。」

なるほど、俺に欲がないっていうのは確かだな。そのまま寝てようか、とも思ったけど、博輝さん忙しい人だから今度いつ会えるか分からない。

「玲真。どう?」

「うん。」

「しばらくいられそう?」

「この家には古い霊が住んでる。」

モデルの男がクスって笑う。

「この人、家のエージェンシーの宏司。」

正直言って、この男と一緒に住めるかどうか分からない。ここの商店街はフレンドリーで好きだけど。そこなら一日中過ごしてもいい。

「この家に住めるかどうか分からない。」

俺は思い切って正直な気持ちを言ってみた。

「とにかく病院の先生と相談しないと。君はひとりでいちゃダメだから。」

そしたら宏司が、

「俺だったら、普通は家にはあんまりいないよ。」

ソイツのせいもあったけど、それだけでもなかったから、黙ってるとまたソイツが、

「話しだったら聞くし。」

親切なことを言い出して、でもこんなヤツに話し聞いてもらってどうなるの?俺は一応、

「ありがとう。」

って言っといた。

「俺が玲真さんみたいな外見してたら、もっとガンガン仕事するのに。」

「宏司と玲真は丁度逆だね。玲真には欲が全然ないし。」

そのあと3人で話して少し打ち解けて、でもやっぱりこの家は俺にとって古過ぎて、色んな邪念がこもってて、ここには住めないっていう気持ちばかりが俺を押さえつける。明日ドクターに会うから聞いてみようと思う。入院は絶対したくないけど、でも他にどうすることもできないとしたら?


ドクターに会いに精神科に行ったら、ナースステーションで止められて、なんと俺のケータイが届いている。どうなるとそうなるんだろう?涼雅がGPSでケータイを見付けて、ここなら絶対俺が来るの知っててナースステーションに預けておいてくれたんだな。彼のことはなるべく考えないようにしてる。もし彼が邪魔しなかったら、俺はもう2回死んでる。ドクター澤村。

「まだ大分死にたいの?」

死にたいけど、そう言うとマズい。考えているうちに次の質問をされる。

「上司の家に居候してるんだろ?」

「はい。でもあそこにはいられない。」

「どうして?」

「怖いんです。家が古くて。」

「倒壊しそうなの?」

「そうじゃなくて。」

「じゃあ、なに?」

霊がいるのを感じる、そう言うとマズい。倒壊ということは考えてなかった。

「なんか窓とか風で鳴って。」

「そんなことが怖いの?」

「はい。だからあそこには住めなくて。」

「病院に来る?」

「自分の家に戻っちゃダメですか?」

「ひとりでなにすんの?」

俺はドクターの顔を見る。なにすんの?って聞かれても。ひとりでいたら、きっとよく効かない新しい抗不安剤と酒を飲んで、1日中ベッドにいる。でもそれも言うとマズい。病院に入って、脳をシャットダウンして1日中ベッドにいることにしようかな?やってることはほとんど同じだから。でもあの古い家にはいられない。そのまま入院した。病棟の1番奥の部屋の1番奥の窓際に入れてもらった。4人部屋で、みんな静かだけど、人の気配が怖くて、息ができるギリギリまで毛布を被って寝ていた。1日中そうやって。病院服で暗い顔をして、カウンセラーに会いに行ったら、ビックリされた。

「先生、絵のこと聞きたかったら、俺どうせここにいるから、あとで会いに来てください。」

「分かった。なにがあったの?」

「知り合いのフォトグラファーと撮影してて、厭世的な気持ちになって。」

「どうして?」

「よく覚えてないんですけど、生きてない者が急に生きることになって、その表情を撮ってて、生きて来ちゃいけなかったんだな、って思って。混乱して。」

「アーティスティックなテーマだね。」

「それをそのフォトグラファーが個展で発表するって言ってた。だからその写真に黒い枠ができるなって。それでまたやっちゃって。」

「なにを?」

「オーバードース。でも今回は薬飲む前に見付かって。」

「よかったじゃない。」

「そうなんだけど、そうでもない。俺のケータイにGPSが入ってて。でもひとつ賢くなったから、今度は失敗しない。」

「でも君、いつも失敗するじゃない。それは生きろってことなんじゃない?来年、ほんとのお母さんに会うんだろう?」

「だからそれもあって、会ってから死なれるのと、会う前に死なれるのでは大分違うなって。」

「じゃあ早く会いに行っちゃえば?そしたら死ねない。」

「ブエノスアイレスなんて地球の反対側もいいとこですよ。無理ですよ。俺の不安障害で。あ、でももしかして、ほんとの父親だったら会えるかも。」

「その人もタンゴダンサーなんでしょ?」

「そう。でも誰だか分かんない。」

「じゃあしょうがないな。誰かに聞いてみれば?」

「伯母さんに聞いてみる。」

「でもやっぱり会いたくないな。俺のことすてて逃げて、1度も会いに来ないから。」

「タンゴダンサーって、恋多き男っていうイメージがあるから、きっと忙しいんじゃない?」

「急に会いに行って、ショックを与えてやろうかな?」

「なんか考えないと。君が生きていける希望みたいなの。」

「ないですね。そんなの。頭が重くて、目の前は暗くて。」

「ウツだね。ドクター澤村はなんて言ってるの?」

「ひとりでいちゃいけないとか言われて、上司の家に行ったけど、怖くて住めなかった。」

「なにが怖いの。」

「これはね、ドクター澤村には言ってないんだけど、霊が怖かった。」

「ふーん。君って、霊感があるの?」

「そういうのとはまた違う。もっと統合失調症的ななにか。」

「なにか見えたの?」

「そういうわけでもない。ただ怖かった。」

「感じたんだね。君、この絵どう思う?」

「ああ。これは怖いです。富士の樹海?抽象なのに。」

「色合い的にそうでしょう?やっぱりね。僕でもそう思った。」

「怖い。その画像早く消した方がいいですよ。っていうか、先生、絵の話しは。」

「あ、ゴメン。君ベッドどこ?」

「病棟の1番奥の部屋の1番奥のベッドです。」

「じゃあ、あとで行くから絵を観て。」

「分かりました。」


部屋に戻って、また毛布を被った。他の人はいないか、寝ている。窓から静かに風が入って来る。鉄格子がしっかりはまってるけど。いつも廊下側だから新鮮。廊下でキャリーバッグをゴロゴロ転がす音がする。ベッドの周りのカーテンはしっかり閉まっている。毛布でつま先から頭のてっぺんまで包まれている。そのままたっぷり1時間くらいじっとしていたら、カウンセリングの先生がPCを持ってやって来た。絵をたくさん見せられて、俺の正直な意見を言って、よく考えてみたら、なんで俺って絵のことがこんなによく分かるんだろう?

「この作家はね、これからまだまだよくなりますよ。値段も上がって行くと思うけど、まだ未熟な部分もあるから、来年くらいに、もしいいのがあったら、買ってもいいかな。」

「へー、じゃあ、この人。僕気に入ってるんだけど。」

「これは先生がこないだ買ったのと同じ人でしょ?」

「えー、よく分かるね。作風が違うのに。」

「感受性が近い。あと色かな。」

「色だってこないだのと全然違うじゃない。」

「この配色は、色相の円を回転させただけですよ。」

「すごいな。君ギャラリーの経営ができるよ。」

「そういえば俺の写真、どのギャラリーに展示されるんだろう?」

「調べてあげるよ。」

「フォトグラファーの名前が、北山誓也って言うんです。」

「なるほど・・・このギャラリーか。俺行ったことあるけど、超トレンディーで立体が多い。アートとファッションの中間くらいの作品も多い。外国人と日本人作家の半々くらいかな?」

「先生、一緒に行ってくださいよ。言ってくれたらもしかしたら外出許可が下りるかも知れない。」

「まあ、聞いては見るけど。」

「だって、あの写真撮ってる時に、今のこの混乱が始まったんだから。なにか手掛かりがあるかも知れない。ドクターにそう言ってください。」

先生が帰って、そしたらナースに呼ばれて、君にくず餅が届いてるからって。いつものとメーカーが違ってて、俺はワクワクして包みを開ける。なんだか餅の厚みが違う。食べごたえがある。俺は小さい頃からこれが好きで、ケーキやアイスクリームより好きで、変な子だった。なにがそんなにいいのかな?香り?きな粉と蜜とのコンビネーション?いつも同じメーカーの物じゃなくて、たまにこういうことするとこが、あの男の賢さを表している。


誓也の個展は10日間で、ドクター澤村の判断は、行ってもいい。しかしカウンセリングの先生と、写真を観ながらよく話し合うこと。それから条件として、涼雅と一緒に行くこと。ドクターに俺は逃げたりしませんよ、って言ったんだけど信用してもらえなくて。でも涼雅のことはすごく信用してるみたいで。カウンセラーは年は涼雅と同じくらいだけど、奇妙なファッションセンスをしている。見たこともないデザインのメガネとか靴とか。3人で涼雅の車に乗ってそのギャラリーに行く。雑誌の取材があるみたいで、誓也はそっちの人達と話しに忙しい。俺達は天使の翼を背負った俺の写真を観て歩く。思ったよりずっと多い。全部の作品の3分の1くらいが俺の写真になっている。ひとりの女性が俺に近付いて来る。

「モデルの方ですよね。インタビューお願いしたいんですけど。」

彼女は写真雑誌の編集者。名刺を見たら、俺のヌードが載った、あの雑誌だった。涼雅は、

「あとで、フォトグラファーと一緒の時にしたいんですけど。」

ってなぜかそう言う。俺のカウンセラーはギャラリーの人と喋っている。ほんとに役に立たない。ドクターが写真を観ながら俺と話しをするように、って言ってたのに。俺はひとりで写真を観る。死んでるヤツは普通に観られる。俺の死に方は上手い。あんな風になりたいと思ってるから。オーバードースの場合、死体はどうなるのかな?警察に行くのかな?それとも直接、葬儀屋に行くのかな?死んだら関係ないけど。俺は自分の死に顔を観てうっとりする。硬直の仕方がだんだん上手くなる。練習のかいがあった。でも生き始めてる写真は怖くて観られない。やっとカウンセラーが来て、

「君、死に顔上手いな。」

「練習してるから。」

「この目を開けたところもいいよ。」

「俺はそれは観られない。」

「なんで。」

「怖い。」

「普通は逆じゃない?死ぬ方が怖いじゃない?」

「誓也が写真に番号をつけたんだ。生きてない物が生きるところまで。」

その番号は大きくて、人々が絶対見るくらいに。それに矢印までついてる。みんなが順番を間違えないように。

「ほんとは俺は死んだ人間じゃなくて、例えば大理石の彫像のような物。だから最初から生きてはいなかった。その大理石の彫像が生き始めた。なにを見てもこの世の物は新鮮で。それがあの辺にある写真。でも俺は驚きや喜びでなく、混乱と不安を感じた。世界の悪意を感じた。生れてはいけなかった。」

涼雅が、

「玲真。」

と俺を呼ぶ。夢中で話してた俺は、少し我に返る。

「そこで撮影は終わった。目を開けた俺は、怖くて観られない。あの矢印の終わる最後の写真。俺の生はあそこで終わるはずだった。どうして俺はまだ生きているんだろう?」

涼雅が、また俺の名を呼ぶ。俺は彼の顔を見るけど、本当はなにも見ていない。誓也が俺達の方へ来る。さっきの写真雑誌の女性が誓也に近付いて、取材が始まる。

「誓也さんが玲真さんと作品を創られるのは2度めですよね?玲真さんの魅力ってどういうところでしょう?」

フォトグラファーとモデルじゃなくて、俺達ふたりの作品みたいな言い方に、俺は好感を持った。

「玲真は存在してないから。生きてるんだか死んでるんだか。」

「玲摩さん、今のどう思われましたか?」

「自分でも分からないから。生きてるんだか死んでるんだか。」

「誓也さん、ファッションフォトグラファーとして、世界の有名ブランドの広告などやられてますけど、仕事と作品との違いはなんですか?」

「広告はもちろん、モデルより商品が主体ですけど、作品だとモデルの人生に入り込む覚悟がいる。」

誓也はあの後ニューヨークに行っちゃったから、なにがあったか知らないんだ。

「玲真さん、それについてご意見ありますか?」

「この写真撮った後、大変だった。」

カウンセラーと涼雅が、俺がなにを言うのか、顔色を変えて聞いている。女性は、

「なにがあったんですか?」

「生れて来てはいけなかった、って気付いた。だからあの死んでる写真みたいになりたかった。」

「本気で死のうと思われたんですか?」

「はい。でも失敗してまだ生きてる。」

誓也が、

「ゴメン。俺なにも知らなかった。俺のせいだな。」

「そうじゃないけど。どうせ俺はいつも失敗してる。」

女性は、

「こんな風にモデルの人生にかかわるような作品は、貴重だと思います。今のお話しで、今回の作品を観る目が大分変りました。ありがとうございました。」

インタビューが終わって、俺は誓也とふたりだけで少し話した。

「今日は病院から来たんだよ。あのふたりに監視されて。」

「玲真、まだ自殺願望から逃れられない?」

「死ぬまで続く。」

「だから俺はこの写真を撮ったつもりだった。この世に生を受けて。」

「誓也のせいじゃないから。この作品を観たら、あの時俺がなにを考えてたのが、もっとよく分かると思って。それで外出許可もらって来たんだけど。あまり思い出せない。」

「あの天使の翼ね、2階に展示してあるんだよ。見に行こう。」

俺はあの羽がくすぐったかったのを思い出した。覚えていたよりずっと大きな天使の翼。この翼をつけて、世界中の悪意を感じて。そして生れて来てはいけなかったって悟って。スタジオの空調の回る音がして。誓也のシャッターを切る音がして。

「この世界に俺の居場所はない。俺は病気で錯乱した10代の母親から生まれた。父親の知れない子。」

「玲真、そう思ったの?」

「そう。」

天使の翼はガラスケースに入って、ライティングまでしてあって、微妙に羽が舞っているのはどうしてだろう?ってよく見たら、ガラスケースの上は開いている。

「ここに飾ったら面白いと思って持って来た。」

「すごいね。作品みたい。誰が作ったの?」

「これはね。天使からもらった。」

「えっ?そしたらその天使はどうしたの?」

「人間に生まれ変わった。」

「それって、俺?」

「ご名答。」

俺はもう一度その翼をよく見てみた。確かにこれは俺の背中にあった。だからきっとこれは俺の背中からなくなって、そして俺は人間になった。

「俺の両親はクリスチャンで、日曜日は家族で教会で。強制されたけど、俺は信者にはならなかった。教義は知っている。堕天使は地上に降りて、人間社会で幸せに暮らす。」

「翼はギャラリーに飾って。」

「そう。」

「なんか、気が楽になった。」

「玲真はアーティストだから、いつまでも親のことなんかが気になる。大人になって忘れる人もたくさんいる。」

「誓也は?」

「俺は親のことは忘れた。教会の美しさは覚えている。クリスマスの時とか。キャンドルがいっぱい。カトリックだったから。聖母マリアとイエスキリスト。」


病院のベッドに帰って、堕天使について調べてみた。ほんとに俺みたいだ。神様に反抗して、地上に降りて来た。そして、いつもみたいに毛布を頭から被らずに、普通にかけて安らかな気分で寝た。今朝も起きたら、凍ってた頭が融けたみたいになって穏やかだったんだけど、昼過ぎにはハイな状態で、頭に色んな変な妄想が浮かんで止まらなくなって、そんな時に限って、廊下からゴロゴロという音が聞えて来る。その音は俺のいる部屋の前でパタッと止まった。今朝はベッドの周りのカーテンも開いてるし、毛布の下に隠れようと思ったけどもう遅くて、彼とバッチリ目も合ってしまった。

「玲真。」

頭の中を回っていた妄想が一気に飛び散る。

「俺達の曲が決まったから。」

「はい?」

「タンゴの。」

俺は目を見開いたまま固まる。彼は不気味に微笑んで、またキャリーバッグをゴロゴロ転がして、行ってしまう。え、またタンゴやるの?涼雅ってまだ懲りてないの?俺、彼の薬2回も盗んで。俺の気分障害。上がったり下がったりがなかなか落ち付かなくて、いつ退院できるか分からない。なぜか涼雅は病院にリハビリルームがあるのを知って、そこはまるでタンゴ教室のようで、壁に大きな鏡もあって、大きな総合病院だから、あっても当然なんだけど、涼雅はその行動力でドクター澤村に許可までとってしまった。夜、患者のリハビリが終わると、俺達の練習が始まる。

「なんで許可が下りたの?」

「君のリハビリだって言った。」

「知能犯。」

「じゃあ、覚えてるところをやってみて。」

「なにも覚えてませんけど。」

「マジ?」

「あれから色々あったし、時間も経ったし。」

「大丈夫。こういうのは、身体が覚えてるものだから。俺はもう自分のパートはほとんど踊れるから。」

「え?いつどうやって練習したの?」

「お教室に通って。伯母さんのパートナーと一緒に。かなりドラマティックな振り付けだから。曲も哀愁漂ういい感じ。」

伯母さん、一歩一歩やっていこうとか言ってたけど、これじゃあマジで一歩一歩。ステップをひとつ覚えると、前のを忘れる。

「考えちゃダメだ。身体で覚える。練習すればそのうち踊れるようになる。」

涼雅は俺が薬盗んで家出したり、ホテルで捕まって、救急車で病院に運ばれて、そっからも逃げて、博輝さんの家に行ったり、また入院したり、そんなことしてる間中タンゴの練習してたんだ。そう考えると、やっぱりこれはやらざるを得ない状況なんだな、ってさすがにバカな俺でも納得してリハビリに励んで、そしたら奇跡的にそのリハビリが効果を表し、俺の気分も一定になって、晴れて退院した。ドクター澤村はこれから患者にタンゴを習わそうか、って言ってる。


笹山はるかタンゴ教室。久し振りに伯母さんに会った。病院で涼雅に教わったとこは時々立ち止まってしまったりはするけど、形になっている。今日初めて俺達の曲を聴いた。伯母さんのパートナーと涼雅が音楽に合わせて踊ってみてくれた。曲に合わせると踊りがこんなに速くなるの?ショック。お教室にはこれから週2回通う。難しいステップはこれからまだまだ練習が必要。でもタンゴって男性のリードでどっちの方向に行くかくらいは分かるんで、多少間違えても男性がフォローしてくれるし。それは他のダンスと多分違うと思う。強引な男のリード。有無を言わさず押したり引いたり。俺が間違えてもガっとつかんで戻してくれる。そうすると俺は涼雅に惚れ直す。アルゼンチンタンゴってセックスと同じ、って伯母さんに言ったら笑ってた。パートナーの男性はその通りだってうなずいてた。男ふたりの踊りは力強さが違う。お教室の生徒さんもすごい、って言ってくれる。俺達が出る、初心者によるデモンストレーション。そのイベントまであと3ヶ月になった。俺の体力続くの?


ほとんど毎日涼雅の家で練習するから、そうするとそのままバッタリベッドに倒れて寝ちゃって、起きてエッチなことをして、だから父に言って俺のマンションを解約してもらった。ちゃんと今までありがとう、って言えた。大人になった気分。仕事もちゃんとしなくちゃ、って思って俺のモデルエージェンシーのサイトを見たら、博輝さんの家で会った、トップの男が、アイスクリームを食べてる写真を発見。誓也の作品。あの天使の翼の。よくできた広告で、俺は初めて欲を出す。俺だっていい仕事をしたい。庭の木の陰でひと晩過ごした、あの時以来初めてオフィスに顔を出す。博輝さんがいて、

「俺にもっと仕事ください。」

って言ったら、

「どうしたの、玲真。大丈夫?」

「親の仕送り減ったんで、働かないと。それに誓也の撮ったアイスクリームのやつ、すごくいい。俺もあんないい仕事がしたい。

「宏司の。アレはいいよね。分かった。じゃあ君のプロフィール写真変えよう。死体の写真ばっかじゃ仕事もなかなか来ないし。」

会社にはプロフィール写真を撮るスタッフがいて、フォトグラファーとか、ヘアメイクとか、スタイリストとか、まだ学生だったり、卒業したてで仕事欲しいヤツとか、みんな若いしすごく楽しい。アイディアもいっぱい。今まで苦手だった笑った顔も自然にできたし、シリアスなのも色々カッコよくできた。

オフィスにもチョコチョコ顔を出して、スタッフに挨拶する。そうするとオーディションのメンバーに入れてくれたりする。博輝さんが、

「涼雅が言ってた。タンゴ頑張ってるんだって?俺もそのイベント観に行くから。そしたら動画をプロフィールページに入れよう。」

「絶対イヤ!」

俺は叫ぶ。

「仕事欲しいんだろ?人と違うことしないと。」

誰かが俺の後ろでクスクス笑ってる。俺が振り返って睨むと、宏司。あのアイスクリームの写真は俺のジェラシー。誓也もアイツより俺の方がアイスクリームっぽい、って言ってた。でも俺にあんなに美味しそうな顔できるかな?やらざるを得ない状況ならできるのかな?でもコイツほどハングリーにはなれないよな。さっきからスタッフ達にまとわりついて仕事をねだっている。俺なんてまだ仕事ほとんどしてない。商業写真はあの縦ロールのと、白いタンゴの。それだけ。営業って難しいな。俺バカだけど、クリエーティブだからアイディアは浮かぶよな。あのタンゴのブランド。あのデザイナーのカップルにだって、俺ってあれからマジでタンゴやってるんですよー、とか言って、今度のイベントに衣装を提供してもらって、それであっちも宣伝になる。そのうちまた仕事をもらえる。ほら、俺ってこういうことなら考えられる。さっそくメールしてみよう。俺のタンゴの写真も送らないと、っていうか写真撮ってないし。今度お教室に行ったら適当な衣装借りて写真撮ってもらおう。普通の服でもいいか?シンプルなやつ。涼雅とふたりでのと、俺ひとりの。


涼雅と一緒に住むようになって、俺の症状も安定した。安定したけど、時々病院にドクターに会いに行く時、自分の幻影をあちこちに見る。病院のベッドに寝ているところや、それに天使のいる噴水に浸かっているところ。今の自分に納得したわけではない。本当の自分ではないような気がする。俺の脳のどこかが、信じるな、って言ってる。一歩一歩覚えたタンゴ。やっとひと通り、最初から最後まで踊れるようになった。時間がないから、どうしてもできない所は大分変えてもらった。イベントまであと1カ月。選手権の前日。ほんとに俺の母は観に来てくれるのかな?伯母さんはそう言ってる。俺は、あんまりないんだけど、男同士のタンゴの動画を探して研究した。ふたり共男の踊りっていうカップルも多い。俺達の場合やっぱりどうしても俺が引っ張り回される側で、涼雅はリードする側。だからといって、俺が女性のように華麗な演技をできるわけじゃないし。だから俺は中性的な立場。


そう思ったから、俺は男女のカップルを研究し始めて、そしたらいつかのクラーク・ゲーブルの顔を細くしたみたいな顔の人が出てて、やっぱり上手で、涼雅もうなってて、

「すごいな。これだけ踊れるってことは、相当小さい頃からやってたとかいうレベルじゃないかな?」

「小さい頃からタンゴ?」

「ダンス。いずれにしろ。」

「この人だよね。涼雅が脳より性器に血流回るタイプって言ってたの?」

「そう、そう。」

俺はまた最初から笑い始める。やっと名前が分かったから、伯母さんに聞いてみた。

「俺はその人が日本人では一番カッコいいと思う。すごい上手。」

伯母さんは大きく深呼吸してから、

「その人が、玲真のお父さん。」

「ええっ!」

涼雅も一緒にビックリしてくれて、

「会いに行こう。」

「あっちから来ないのに、俺は行かない。」

「俺、すごいファンだから会ってみたい。」

「じゃあ涼雅ひとりで行って。どうして連絡ひとつくれないんだろう?」

伯母さんは、

「こないだ玲真のこと話したんだけど、彼は芸術家肌でプライドも高くて。自分が父親だって信じてないみたいで。」

涼雅は、

DNA検査をしよう。」

「それは難しいんじゃないかしら?」


涼雅はDNA検査にすごく乗り気で、

「タンゴのダンサーなんて、大抵食うために教えてると思うぞ。」

「あ、これ?涼雅、頭いい。体験レッスンもある!」

「ほんとだ。都内だな。一緒に行ってみよう。」

俺達は体験レッスンに潜り込んだ。怪しまれないように、ふたり共そこに来ている女性と踊る。休憩時間になった。

「どうする?涼雅。どうやってサンプル取るの?あの人タバコも吸わないみたいだし。」

「さっき俺に意味深な眼差しを送って来たぞ。」

「え、ゲイってこと?」

「まあ、バイセクシャルとか?でもやっぱり魅力あるな。」

「怪しい?好きなの?どうするつもりなの?」

「俺が誘惑して。」

「寝るの?マジ?やだ俺、そんなの。」

「じゃあ、君がやれ。」

「えっ?」

「男を誘うの、専門だろ?」

「でも涼雅に色目使ってたんだったら、俺、全然タイプ違うし。」

「大丈夫。性器に血流が行くから。」

俺は女性と踊りながら、彼に俺の必殺、意味深な流し目と微笑みを送る。レッスンが終わったあとも俺はひとりで最後まで残って、彼の目を見詰めて、

「今日は貴重な体験をありがとうございました。ずっとファンでした。」

俺は静かに教室を去ろうとする。そしたら、

「あ、君?」

「はい。」

「急いでないなら、少し話しでもしよう。」

彼は、クラーク・ゲーブルを細くしたみたいな顔で言う。

「急いではいないけど。僕、地方から来てるから。明日帰る。」

「ホテルに泊まってるの?」

「うん。」


涼雅が外で待っている。

「ホテルのロビーで待ち合わせ。」

「分かった。どっかホテルをとろう。」

俺達は念入りに作戦を練る。

「玲真、危険なことは絶対するな。俺は部屋の外で待機してるから。」

ホテルのロビーで彼としばし歓談する。ここ数カ月で仕入れた俺のタンゴの知識を披露する。

「僕、アルゼンチンタンゴって、セックスそのままだと思うんです。それにあのバンドネオンの音色が実に退廃的で。でもずっと先生が俺のNo.1でした。」

「セクシーな踊りだよね。」

「はい。先生、僕の部屋のミニバーで飲みませんか?その方が静かだし。さっき見たら色んなのが入ってた。」

涼雅が遠くから見ている。俺達は部屋に上がって行く。部屋に入ると彼はいきなり俺を抱き締めようとする。

「ダメ、僕、恥ずかしいから。」

と言って逃げる。もしコイツが父親だったらヤバいよな。

「ちょっと落ち着くまでなにか飲ませて。」

俺はミニバーを開けて、ビールを2本取り出す。

「先生、僕と乾杯してください。やっと出会えた記念に。」

そして俺はカーテンを開けて、

「すごい夜景。見て!」

彼が窓の外を見ている間に、俺はビールを開けて、先生の方にだけなにか放り込んで、何事もなかったように、

「乾杯!先生、ずっと会いたかった。」

と言って俺は背中にしな垂れる。先生はビールをグッと飲み込む。俺達は手を取り合ってタンゴを踊る。しばらくして先生はベッドに倒れ込んで、ぐっすり寝てしまう。俺が部屋のドアを開けると、涼雅が入って来て、

「こんなことしてんのバレたら、会社首だよな。」

「まあ、人助けだから。」

「さすが家のメーカー。よく効く睡眠薬だな。さあ、この綿棒で口の中の粘膜を・・・」

「やった!」

「よく寝てるな。まあ、こんないいホテルとってやったんだから。」

「俺、こんなヤツが親だったらヤダな。」

「なんで?いいじゃないか?一流のタンゴダンサーだ。」

「やっぱりコイツ、頭は弱そう。あっちの方は元気そうだけど。」

「え、なんかあったの?」

「なにもない。」

「ほんとに?」

「抱き付かれそうになったから逃げた。それからタンゴを踊った。」

「へー、いいな。」

「ちょっとだけだよ。すぐ寝ちゃったから。」

「結果は来週中に分かるらしいぞ。」


笹山はるかタンゴ教室のイベント。俺達の男ふたりのタンゴ。初心者は1番最初。俺はナーバスだったけど、涼雅は自信あったみたいで、俺が間違えても落ち着いて引っ張ってくれる。1回思いっ切り涼雅の足を蹴ったけど、彼は何事もなかったように、演技を続ける。俺の男を見直した。半年前に練習を初めて、俺は入院したり色々で、彼にサポートしてもらってやっとここまで来れた。全部終わって俺、感動してもう泣きそう。よくやったと思う。病院のリハビリルームで練習してたことを思い出す。

「玲真、君のお母さん。あっちのテーブル。」

涼雅が向こうのテーブルを指差す。イベントはディナー付きで、でも演技だけ見に来てる人もいる。あっちのテーブルを見たけど、それらしい人はいない。動画で何度も観てるのに。

「化粧が普通だから分かんないんじゃない?ほらあの赤いドレスの。」

「え?イメージが違う。」

舞台メイクじゃない時は、なんか普通の品のいい奥様、って感じ。伯母さんが俺を連れて行って、母親に引き合わせる。俺が近くに寄ると、母はスッと立ち上がって、握手の手を差し出して、俺の手を強く握る。

「玲真。」

って俺のことを呼んで、ハグしてくれたんだけど、なんとなく俺達の間に、空気が1枚挟まってるみたいな、そんなハグ。なんでだろう?自分が病気で俺が身体の中にいた時も入院してて、子供生んだ実感もなかったから?それともずっと会ってなかったから?

「ダンスの動画、全部観た。」

「ほんと?嬉しいわ。」

綺麗な日本語。もしかしたら日本語忘れちゃったのかも、って思ってた。

「あの、なんて呼べば?」

伯母さんが俺の後ろから、

「おかあさん。」

って言ってくれる。おかあさん、なんて読んだら絶対泣く。ふと見ると涼雅がどこからかティッシュを箱ごと持って来て俺に差し出す。じゃあ泣いてもいいんだな、って思って。

「お母さん!」

思い切って、そう呼んで、もう一度抱き付いて、今度はさっきみたいに遠慮しながらじゃなくて、あっちもラテンっぽく熱く抱き締めてくれた。そのあとはしばらく泣いて、廊下に出てまた泣いて、少し落ち着いて会場に戻ったら、出し物が全部終わってて、出演者も、見に来てる人達もダンスフロアで踊り始める。ライブの演奏も始まった。俺は母と踊った。やっぱり身体の動きが全然違う。エレガントだけど艶がある。

「俺、タンゴ習ってよかった。そうじゃなかったら、難しさとか素晴らしさとか、ほんとには分からなかった。」

俺を置いて、タンゴのためにブエノスアイレスに飛び立った母が、俺の目を見て微笑む。母の目はやっぱり日本人離れした明るい茶色。俺にはどんな血が混じってるんだろう?母に聞きたいことはたくさんある。明日の選手権のために、母とパートナーの男性は早めに帰って行った。明日演技のあとにまた会おうね、って約束した。


涼雅と俺はタキシードを着こんで、選手権に向かった。母達の演技は終わり頃で、

俺は動画にあるのはみんな観てたけど、そんなのと実物は全然違ってた。身体から出る熱気。微妙な靴音。そういうのは近くで観ていないと分からない。トイレに行くと言って、席を立った涼雅が帰って来て、

「玲真、トイレで誰と会ったと思う?」

「誰、誰?」

「クラーク・ゲーブル。」

「え、じゃあ選手権に出るの?」

「そうだろう?そんな感じだった。話しするいいチャンスだぞ。」

「え、どうしよう?」

伯母さんが同じテーブルにいて、

「あの人、かなり有力候補らしい。ゆりか達もとてもよかったから、大丈夫だとは思うけど、油断できない。」

俺はクラーク・ゲーブルを捜して、見付けて、ヤツに向かって微笑む。あっちはビックリして、でも俺になんて言っていいのか分からないような感じ。クラーク・ゲーブル達の演技が始まった。俺は舞台のすぐ近くに陣取って、彼が1番近くに来た時に、

「お父さん!」

と叫ぶ。彼は動揺して、そのあとはあんまり冴えない演技。こっちには証拠も全部揃ってるんだから。認めないとは言わせない。俺の親探しの長い旅も終わった。親が分かったからと言って、俺のアイデンティティーの混乱に変わりはない。やっぱり自分の存在は不安だし、でも母は俺の病気を理解してくれる。これからは連絡取りたい時にできる。これは大きなことだと思う。


選手権が終わって、母みたいに本場のアルゼンチンから来た人達がいて、すごく上手で、母達は2位になった。長い選手権が終わって、夜中近くになって来場者にフロアが解放された。俺は涼雅とベッタリくっ付いて踊った。

「玲真、よかったな、両親に会えて。」

「うん。ありがとう。涼雅のお陰。」

「大変だったな。くず餅買ってあるから。」

俺はフロアの真ん中で立ち止まって、彼に熱いキスをしてあげた。


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千本松由季

Author:千本松由季
東京都出身。カナダ在住。
男同士の恋愛を、様々なテーマで書いています。作品は長編を中心に50作以上。
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bridgetteyuki@hotmail.com
イラストも描いています。

©Yuki Sembommatsu 2017-2018